ねらいとねがい
テレビの企画書を書くのは難しい。そこには、タイトルとねらいと構成・内容の書く欄がある。
まずはタイトル。番組の顔だ。これが決まらなければ、スタイルも内容も決まらない。これがすっきり書き込むことができると概ね企画はうまく立ち上がる。現実はなかなかそうはいかない。10~15ほどの文字数でうまく中身を表しているか、耳目を引くような新鮮さはあるか。最後の最後まで四苦八苦する。
次に苦心するのがねらい。構成・内容は番組の概要だからそれほど難しいわけではない。難しいのはねらい。ねらいは本番組が誰に向かって、どんなことを、どんな「ねらい」で、どういう仕掛け遣り口で、どう伝えるかを記す。「ねらい」とは作者のメッセージを表す。本番組を通じて世の中にどんなことを言いたいか伝えたいか、これを見ればこんないいことがある、得をする、感動をするなどという効能まで書き込むのだ。ここが難しい。読み手つまり企画書を受け取る人の心をゲットするキモはここにあるのだ。(言わずもがなだが、心をゲットすれば企画は通る)
最近、企画書を書いたり読んだりしているうちに、上のねらいの考えに違和を感じるようになった。テレビは知らないことや感動的なことを視聴者に教えたり伝えたりすることを使命とするメディアなんだろうかと。視聴者はテレビから知識や感動を得たいと思って見ているのだろうか。どうも、最近の視聴者の態様は違うのではないだろうか。
まずテレビだけに情報源を求めるのは老人しかいなくなった。ほとんどの層(児童・少年少女・青年・成年)はケータイをしながら、PCを打ちながら、本を読みながら、家事をしながら、勉強をしながら、仕事をしながらテレビを見ているのではないだろうか。つまり”ながら”視聴になっている。「本気」で見ているわけではない、かといって「ついでに」見ているわけでもない。関心がある話題であれば、ながらを止めて注目もするし、つまらなければながらに戻る。さらに、視聴者は制作者からのメッセージを厭う傾向が増えた。押し付けがましい主張はうざい暑苦しい、鬱陶しいと敬遠されるようになった。自分に役立つ部分、感動する部分だけのイイトコドリの視聴になりつつあるように思う。
こういう情況のなかでは、メッセージ中心のねらいというのは世の動きとあっていないのじゃないだろうかと考えるに至った。しいて言えば、ねらいでなくねがいではないか。
本番組を通して、こんなふうに見てくれると嬉しいがという制作者の思いをこめるほうが有効ではないかと考えるようになった。
だが、こういうことを言うと志が低いとか作家性が薄いとか批判されるだろう。でも過剰な番組の自己主張は嫌われ、視聴者(というか利用者)の主体が尊重されるSNSやネット動画などに関心が集まっている現実を無視できない。
テレビと視聴者の関係をボケとツッコミで分類すると、テレビはボケの側に廻りつつあるように思える。
今、企画書のあり方だけでなく、テレビ番組のあり方そのものが大きく問われている。
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