魂消た
むかし妻と牧谿の柿のごとをりし 森澄雄
――こんな句を知った。今日の明け方のことだ。午前5時前だったか、トイレに起きて、床に戻ったとき、ふと句論を読みたくなって、青山学院短大の国文学の教師の文章を読んだ。名前を失念したが、その人はくだんの短大の教師として、あの加藤楸邨と席を並べていたというエピソードが心に残っているだけで、その人に関心はない。たしか専門は仏文といったか。
その人がかつての巨匠森澄雄の作品を紹介していて、そこにこの「むかし」が入っていた。
中国の文人画家牧谿が描いた柿の実ふたつが並んだ図を見て、まるで私たち夫婦のようだと森が感じたのだ。そのことをこの句で表している。こうやって読み下して説明すると、途端にこの句のもっているアウラがするすると消えていく。愚か者め。句を説明するな。
それにしても、なんという言葉のあしらいの巧みさ。凡人が富士山頂で逆立ちしたって、けっして出てくる言葉じゃねえ。
むかし妻と▽をりし、と流れるところに、牧谿の柿のごとという一言が断ちわって入ってくる。その無礼大胆な狼藉、かつ優雅さ。
句はじめから柿のごとまで一気に駆けくだってきて、ぽつんと放り出す「をりし」。魂消た。
とここまで書いて、試写の始まる時刻になったので、この文、中断。
明けて12月8日。開戦日か。
今朝も4時半に小便で目が覚め、その後、俳句および俳論に読みふける。最近、「ゐる」と「をる」という語のもつ深さに感じ入っている。
ムカシ、吉永小百合が歌謡曲のなかの朗読で次のような「短歌」を朗唱していた
遥かなる 大空のもと 丘のポプラは揺らぎ ひとりいはなべて悲し
短歌ではなかったかもしれないが、この歌を私は気に入り、愛唱するようになった。だが、どうも「ひとりいはなべて悲し」の句が腑に落ちない。ひとりはなべて悲しではないのはなぜか、ずっと分からなかった。
今朝、はっと分かった。独り居はなべて悲しなのだ。独り居はひとりゐと表記するはずだ。
このように、「ゐる」と「をる」という語は存在を表すという高度な役割を担っていることに、今頃になって気がついた。(オロカモノめ)
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