続 甦った妹の名前
S方家は、浦上の山里町にあった。爆心地の松山町から数百メートルの地点だ。
当然のことながら家は全壊、家族も家にいた母も亡くなった。
上の姉二人は外へ出かけていて偶然助かった。父も出先で負傷したがもどってきた。
行方が分からないのは三女の保子だけだった。
9日当日は、学校から隊列を組んで兵器工場に入ったからきっとそこで被爆し、どこかへ
逃げたのだろうと、残された家族は考え、被爆から一月は介護所を中心に探したが、結局発見できなかった。
戦後長く、消息を追ったが行方は杳として知れなかった。
老姉妹の話を、私は半信半疑で聞いた。だが、調査してみるとS方家の所在は、たしかに彼女たちの申告どおりで、かつミッションスクールへ通う女の子がいたという情報は間違っていなかった。その学校が純心女学校であるという裏づけがとれない。
万策尽きて、私はその姉妹を連れて、純心女子高校へ行った。
学長の江角シスターが自ら応対してくれた。事情を話すと気の毒がってはくれたが、証拠も裏づけもないのに、学校の犠牲者名簿に記載することもできないと、拒まれる。
何とかOGや関係者に問い合わせていただけないかと、私はシスターに食い下がった。姉妹は何も言わずじっとシスターを見つめるだけ。
シスターは事務員を呼んで同窓会名簿を持ってこさせる。その行方不明の妹と同じ学年と思われる生存者を探し出し、電話をかけた。その女性からさらに紹介された人物を追いかける。
これを2,3度繰り返していたとき、一人の長崎在住のOGがその少女を知っていると証言した。シスターの受け応えで分かる。
「あなたは、そのS方保子さんを覚えているのですか?――そうですか、確かにクラスにいましたか・・・」
姉妹の顔を見ると、強張っている。
電話を終えてシスターは顔をあげ、老姉妹のほうへ向き直った。「よかったですね。証人が見つかりました。保子さんはたしかに本校に在籍していて、当日他の生徒といっしょに被爆している、そのことが今の人の証言ではっきりしました。」
すぐに業者を呼んで、保子の名前を慰霊碑に刻むと、シスターは約束してくれた。
髪がすっかり白くなった二人の姉は、大粒の涙を静かに流していた。
それから10日後の夕刻、純心女子高校キャンパスの慰霊碑の前でS方保子さんの記念式典が行われ、私は二人の姉とともにゲストとして招かれた。
3,4人のシスターと30名ほどの女子高生が集った。式の終わりに、高校生たちが賛美歌を歌った。歌声が長崎の夕闇に広がるのを、私はじっと聞いていた。

これは、S方家があった山里町の被災現場から掘り出された鉄の花瓶だ。原爆の放射線と熱線によって片側が焼け爛れている。被爆した花瓶でS方家のいわば原爆の「形見」とも言うべきものだろう。姉妹は保子の名前が甦ったお礼にと、この被爆花瓶を私にくれた。
今、大磯の私の本棚にある。
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