甦った妹の名前
私は被爆から40年経った1985年、原爆死した身寄りのない遺骨2万体についての
ドキュメンタリーを長崎で制作した。
被爆直後、爆心地には無縁となった遺骨が散乱した。戦地から復員したある僧侶が、その姿を哀れに思い少しずつ拾い集めた。やがて真宗大谷派の僧たちが行動を共にしてゆく。
そうやって1年余りで、およそ2万の骨が収集された。昭和21年に進駐軍立会いのもと
慰霊祭が行われたが、やがてその遺骨の存在は人々の記憶から消えてゆき、40年経った。この話を「原爆被災誌」の記事から見つけ、私はその遺骨の安置されるまでの由来を番組にして、30分の九州ローカル番組として放送したのだ。
放送後さまざまな反響があった。いまだ身内の行方が分らない家族や親戚から、遺骨の手がかりになる情報の問い合わせが相次いだ。
ある日、中年の姉妹が私を訪ねてきた。二人の妹の行方を知りたいというのだ。学徒動員されていて被爆した妹の行方が、いまだに分らない、もしかするとあの2万体の中に眠っているのではと思い、番組を制作した私に問い合わせに来たのだ。遺骨には情報といえるものがほとんどないから難しいと断ると、お寺にお参りするだけでいいから連れて行ってくれと言う。私は二人を案内した。
境内に入ると二人は金縛りにあったように硬直した。言葉を失った。思わず、どうしたのかと聞くと、「妹はここにいます」と上の姉が答えた。
私は「危ないなあ、精神状態が尋常ではない」と心の中でつぶやいた。
数日後、姉妹から局に私あての手紙が届いた。感謝の言葉があった。妹の事情が詳しく書かれてあった。
姉妹の旧姓はS方という。変わった姓だ。二人の妹S方保子は当時純心女学校の2年生だった。学校近くの兵器工場に学徒動員されていた。そこで作業中被爆したことは分っているが、その後の行方はまったく分らない。保子とともに働いていた同級生も何人か犠牲になった。その人たちの名前は、母校の純心女子高校にある原爆慰霊碑に刻まれている。
だが保子の名前だけない。以前から学校に名前を加えてほしいと要望しているのだが、保子が在籍していたという記録が見当たらないので、それは出来ないと言われている。
姉妹の手紙には、何か切羽詰ったものがあった。(この記事、続く)
長崎で集められた2万体の遺骨(昭和21年)
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