8月6日、広島の日
7時のニュース、トップは被爆60年をむかえた広島からのリポートだ。平和公園には早い時間から大勢の人が集まっていた。節目の年だが、ニュースは10分足らずで内容が切り替わった。郵政法案による解散ぶくみの国会の情勢報告だった。
10年前の1995年の夏、私は広島に住み、番組を作っていた。通勤は電車で原爆ドーム前まで行き、そこから太田川沿いに歩いて放送局に向かうのが常だった。土手の道には
あちこちに原爆の碑があり、毎日それを目で確かめながら歩いたことを思い出す。
その道の途中に島病院があり、その上空で原爆が炸裂したのだ。まさに町の中心だったため、被害は全市におよんだ。その年の暮れまでで14万の人がなくなったとされる。
8時15分という時間帯は通勤通学と重なり、大勢の生徒、児童が犠牲となり、行方が不明となった。広島を取材していていつも胸をかきむしられるのは、子を失った母の心情だった。50年経っていても、亡くなった子を思い、その子を守ってやれなかったことを悔い、自分が生き延びたことに呵責を感じていた。その感情はなまなましくけっして古びていなかった。
今になってみれば、これはトラウマ(心的外傷)だ。そのための癒すことも方法も知られている。
が、昭和20年から50年以上、身内をなくした被爆者はそのトラウマを知ることもなく、自分の弱さだとして苦しみ、責めてきたのだ。
太田川は下流ではいつも死をはらんで流れている。水面を見るたび、そう思ってきた。
今日も暑くなりそうだ。大磯もみじ山も蝉時雨がしきり。
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