あっつんの結婚
昨日の日曜日、娘が結婚式をあげた。5月24日は仏滅だったが、本人の誕生日でもあるし、父方の家はクリスチャンホームであるからそんな験はかつがないはずと嘯いて、ためらうこともなくその日を選び、無事式をあげた。
天気予報では、24日は曇りのち雨となっていて、野外での記念撮影ができないかもしれないと娘は前夜やきもきしていたが、一滴の雨もなく無事に有栖川宮記念公園でお望みの記念写真を撮ることができた。
花嫁の父という役回りはできるだけ避けたいと願っていたが、とうとうやらされることになった。本当ならば、あのバージンロードを娘と手を組んで歩くなんて無様な姿は人目にさらしたくないのだが、今回ばかりはそうもいかず、とうとうフランス料理店の地下の小さな祭壇の前を粛々と歩くことになった。式当日は披露宴の進行が気になり、娘への思いも何もアタマから吹っ飛んでいたが、一夜明けて冷静になってみると、少女時代の姿や言動があれこれと思い出されてくるのも不思議な回想のメカニズム。
娘は長崎で生まれた。その週が聖マリア降誕節だったので、マリアの一字をもらい麻子となづけた。活発な子で、1歳になるかならぬかのうちから悪戯ばかりするガキになったので、「あっつん」と呼ばれるようになった。
子育てにはほとんど参加していないというのが、家族の私への評価。大磯の小学校、中学校、県立の大磯高校と公立ばかりをぬるく生きてキタらしいが、その実態をほとんど知らない。その時期、プロデューサーとして乗っていた私は、番組の仕掛けや取材、編集にばかり気をとられていた。
やがて、娘は東京の女子大に入学して、2年目にフランスへ語学留学した。小学1年のときにパリへ遊びに連れて行ったことがあって、フランス文化に関心をもったらしい。大学の専攻もフランス文学科だった。10ヶ月ほどパリの語学学校に通ったとき、私はひとりで様子を見るためパリを訪ねた。そのときの3日間が娘とはじめて向き合った日々だったといって過言でない。
そのとき、娘は文章表現に長けたものがあると気づいた。就職活動の時期に入ると、出版社をめざす。その頃、エントリーシートのチェックぐらい手伝ったかな。やがて、銀座にある中規模の出版社に入り、実業書を編集するようになる。文学書を担当したかったらしいが、ひとまず実用書の編集部で実務を教わり、社会人としてのマナーを磨いてもらった。忙しいとぶつくさ言いながらも、本を作る喜びは何ものにも代え難いらしく、深夜遅くまで働くようになっていた。フランスから帰国してからは、実家から追い出して、ひとりアパートに住む暮らしに追いやった。いつまでも甘やかすと当人のためにならないという息子の有り難いご託宣に従った。といっても同じ町に住んでいたから、晩メシを食いソビレたからと言って、しょっちゅううちにやってキタのだが。
こんな色気も味気もない思い出しかないが、そういう交わりも終わるとなると、いささかの寂しさもある。
娘が嫁いだのは、大阪の京都と境を接する川沿いの町。
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