8月1日の朝の列車
ホモソーシャルないじめ、いびり
ホモソーシャルという、数年前アカデミズムで流行した言葉がある。
同質社会的とでも訳せばいいんだろうか。ホモセクシャル(いわゆるホモ)ホモエロスとは違って
同質の者同士の結びつきというほどの意味だろう。インテリは新しい横文字を使うのが
好きだから、いちいち理解していくのは大変だ。
四方田犬彦氏が映画史を考えるうえで、このホモソーシャルという考え方は実に有効だと喜んでいたことがあったっけ。あるプロジェクト(仕事やイベントなど)を遂行する物語があれば、その主体は同質的な絆で結ばれているという。「スティング」のポール・ニューマンとR・レッドフォード、「渡り鳥シリーズ」の小林旭と宍戸錠。二人だけとはかぎらない。「赤穂浪士」の47士。
私の思うところ、同質の者が群れるという現象だ。このきずなで何かをやり遂げるというのは美しいが、反面きずな外は仲間外れにするということではないか。
今朝、「特ダネ」を見ていたら、女性のリポーターが話しを進めていると、司会のオグラが茶々を入れ、側らにいたマエダチュウメイとかオスギとか大学の先生らが同調した。そのリポーターを皆でせせら笑うようにみえた。
「あ、ホモソーシャルな関係とはこれか」と、この場面を見て、私は思った。こういうことは、実は会社でよく見かける。オヤジ同士がつるんで、其の輪に入らない者をいびり、はずれにするのだ。
今朝のテレビで面白かったのは、そのつるむ中にオスギがいたことだ。彼はホモセクシャルで、いわゆる男社会のホモソーシャルには入らない存在だと思い込んでいたが、そうではなく諸にオヤジの側に立っていて、若い女性リポーターを小馬鹿にしているようにみえた。
これで分った。ホモソーシャルにはセクシャルな要素は関わりなく、社会的結びつきのみが機能するということ。
それにしても、オヤジたちの姿は見苦しかった。
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