大江と三島の間
三島由紀夫が自死を遂げたとき、大江健三郎は人間に対するおおいなる侮辱と非難したことは知られている。その意見には私も同意する。
だが一方で、三島のもつ豊かな文学に対してはどうも気になるのだ。先日書いたブログ「アップスタンディング」ということにREJOICEさんから親切なアドバイスをいただいた。この意味を「廉直な」と大江が訳した心が分かろうというもの。人を励ますものとしての文学を考えてきた大江さんが、三島の、あの「死」を認められないのは当然だ。
この点を留保しながら、話を進めたい。
三島は大江の才能を高く評価していた。ある時期、大江が三島を敬愛していたことも事実であろう。二人のアンビギュアス(あいまいな、両義的な)関係については、ドナルド・キーンが書いている。
日本近代文学上、新しい意味をもって登場したのは三島でなく大江であろう。どれほど華麗でロマネスクな小説を書こうとも、三島は伝統的な「近代」文学観から脱することはできなかった。一方、大江は敗戦の中から立ち上がった民主主義という理念を、文学に具体的に刻んできたのだ。『個人的な体験』『万延元年のフットボール』『新しい人よ、目覚めよ』・・・
一方、戦後民主主義を擁護する立場を貫く大江も、近年の小説には「テロ」や「革命」の色が濃くなっていると、私は感じる。三島の目論んだ「決起」に近いものを私は見るのだが言い過ぎであろうか。『燃え上がる緑の木』『取替え子』『憂い顔の童子』・・・
正直に言えば、私は三島の作品はけっして嫌いではない。その政治性を還元した、彼の文学、演劇について、番組にしてみたい、三島の中に、大江的なものを見つけてみたい、
という思いに、つよく駆られるのだ
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