柄にもなく
「どうせ使わない絵撮ったって無駄じゃない」NHK取材陣の言葉だとPCさんのコメントが当ブログに入り、それを読んで、久しぶりに小生の内なるPD(プログラム・ディレクター)魂がむらっと燃えた。
おそらく、トンマなカメラパーソンが現場でそういう言葉をはなったのを、傍らにいてPCさんは批判的に受け取ったのだろう。私とて、もしそこに立ち会っていれば、当然一言ぶちかましているのは想像がつく。作り手のプライドを懸けても、そんな言葉は口にするべきものでない。
フィルムからビデオに移行しつつあった1980年代後半、ロケから帰ると、ずいぶん成果物(撮影済みのビデオテープ)が多いなあと自分ながら驚いたものだ。フィルム時代の優に3倍を超えるようになっていた。たしかに収録機器が電子化されると、撮影の時間は急速に伸びた。現場へ入ってから撮影を終えて離脱するまで、のべつまくなしに撮影を続けるクルーも少なからず出てきた。特集の場合、50分の番組を構成するために必要な新撮の映像は、1000分。およそ20倍ほどの分量が必要だと当時は考えた。が、ホケンを懸ける手堅いというか小心な撮影クルーはそれ以上の分量をゲットすることも少なくなかった。フィルムと違って、ビデオは使いまわしが効くので経費的にも許されたのだ。今は、当時よりもっと収録可能となっておそらくその3~4倍の50時間ほどになっているだろう。
きちんと現場を見つめて、キイの絵や拾いの絵を選択的に撮影するなどという愚直な方法より、とりあえずそこにあるものゼンブ撮ってくればいいだろうといわんばかりのラッシュ(成果物の別の言い方)が昨今目につくことは事実。どこかの国の底引き網(トロール)漁のようなものだ。欲しい獲物以外も一切合財すくいあげるという荒い漁法。
映像の底引き網も荒い。ただ撮ったというものは、作り手の意思(作為、願望)が希薄で、結局編集段階でどんどんカットされ、使わない絵に堕ちていくのも事実。
だからといって、どうせ無駄になるなら撮らないというのは、作り手としてデカダンスに陥って居るといわざるをえない。
ドキュメントは、その現場を切り取ること。そこで起こった一回性の出来事を記録すること、だ。その記録を撮ってこそ作品は立ち上がるのだ。つまり、「撮ってなんぼ」の世界だ。これを達成するためには、たえず現場にあってセンサーを張り巡らして、悔いのない絵作りに挑むのが、現場のこころ。
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