50日祭
17日、広島に行った。1月5日に死去した喜多素子 さんの50日祭への遅い参加だ。喜多さんの自宅は広島からJRで2つめの五日市にある。正式には佐伯区楽々園。かつて海水浴場であった浜が戦後の早い時期に埋めたて造成された新興の住宅地に、喜多さんのお父さんが閑静な和風建築を建てたのが40年前のこと。電力会社の技師であったというお父さんは口数が少ないが笑顔を絶やさない純朴な人。代わりに喜多さんの最後を詳細に語るお母さんは明るく社交的な人だった。
午後3時。喜多家の門を叩くと、両親が温かく迎えてくれた。わざわざ東京から平日に来てくれたとえらく恐縮している。そのことがかえって当方の緊張をさそう。お悔やみをどう切り出そうかと、持参した東京の菓子折りを手にしたまま一瞬狼狽えた。
玄関を入ってすぐ左手にある和風の応接間に通された。奥の床の間あたりに喜多さんの祭壇があった。写真と遺骨箱をぐるっとお花が囲み、背中には青々とした榊の葉の柱がずらりと並んでいた。線香もないし位牌も戒名を記した短冊もない。そのことを問うと、父上が「うちの故郷の尾道では神式が主流なんですよ」と答えた。
2時間ほど、喜多さんの思い出で話が弾んだ。思っていた以上に、両親は喜多さんの生前の働いていた姿のことを知りたがり、私の持ち出す職場エピソードを面白そうにかつ珍しそうに聞き入ってくれた。ついつい私も調子に乗って、20年前の現場のドタバタ話を仕方噺で語ることとなった。喜多さんは家では職場のことをまったく話してはいなかったということで、私から聞かされた逸話は、まったく知らない別人の話を聞くようだと、満足げに言っていただいたことに、来た甲斐があったと安堵した。(子が親よりも先に逝くという逆縁。お二人はどんなに苦しまれたことだろう。)
17日はいつになく穏やかな春の日和、気温が18度を超えていた。私たちの笑い声で、遺影の喜多さんも心なしか微笑しているように思えた。
辞去する前に、喜多さんの闘病のことを聞いた。それは私の想像を絶するものであった。16年前に食道の異物を見つけて、すぐ食道癌を発症。放射線治療を重ねて恢復。癌細胞をすべて除去したと安堵して8年ほどは元気に働き遊んでもいた。ところが、ふたたび食道に異変を感じると、重篤な病が彼女を襲った。舌癌まで発症。この4,5年はほとんどベッドに伏せったままの状態となる。そして、昨年の後半から末期治療としての緩和ケアの病室に入って、最後を覚悟していたようだ。口から食べたり飲んだりできないので腸瘻(ちょうろう)をつけた。この1年間、かのじょはまったく食べ物を口にしないばかりか水も自分の唾液も飲まなかったそうだ。どれほど喉が渇いたであろう、どんなに空腹であったろう。そんな境遇に苛立つことも激することもなく従容と運命を受け入れていた。
最期の日も、自分では食すことはできないが、野菜サラダを作ろうとしていた。少し
気分が悪くなって床に伏せた。すると大きな吐血。母上は喜多さんの体を抱いた。苦しむこともなく眠るように喜多さんは逝った。お母さんは後に、「まるで、神様がすーっとすくいあげるように」と書いている。素子さんのからだも魂も、お母さんから神様にを引き取られたのだ。そのとき。
喜多さんはやっと苦しみから解放されたのだ。
お疲れさまでした。サヨナラ喜多さん。
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