長崎大水害
新潟がまた水害になった。昨年と続けてで、梅雨前線の活動が従来とはだいぶ変化しているようだ。
[湿舌]という現象が起こる。前線からぽつんと離れてちょうどインドに対するスリランカのような形で、湿気の塊ができる現象で、集中豪雨をもたらす。梅雨の末期に、起こりやすく主に九州北部で起きると言われる。長崎では古来「ハゲ雨」と呼んだ。半夏生の頃によく降るからだ。
昭和57年7月23日、長崎に記録的な集中豪雨が襲った。時間雨量が350ミリを越える途方もないもので、299人の犠牲者が出た。
その事件から一月後、私は転勤で長崎に行った。町には水害の爪あとが生々しく残っていた。
ディレクターとして、私はこの災害の原因や被害を追った。当時37歳の私はバリバリ動き取材を重ねた。
最大の被災地は本河内奥山という地区だった。死者は40人を越えた。地区内を流れる川の上流、中流、下流に集落があり、周りの山の一部が崩れいっきに家屋を破壊押し流したのである。犠牲者の大半が中流地区だった。なぜだろうと思い、私は調べはじめた。
150世帯ほどの全戸の当日の行動を克明に追ったのだ。降り始めの夕方5時から発生の8時15分まで、各戸はどんな行動をとったか、私はある工夫をして調べた。
時間を輪切りにしてその都度の行動を記録したのである。目盛りの時間はテレビの番組内容を手がかりにした。
当日は金曜日。NHKは特集で「土光敏夫の人生」を、日本テレビ系は「太陽にほえろ」を放送していた。例えば、8時13分土光さんがめざしを食べるシーン、そのときあなたは何をしていましたかと、住民にアンケートをとったのだ。生者の様子はおおよそ把握できた。
死者はどうしたか。実は彼らは襲われる直前、必死で地区外へ向かって電話をかけていた。
特に中流地区は新興の宅地で他所から入った人が多く、土砂降りの雨で不安を覚えて外部の知人と連絡をとりあっていたのだ。その電話を受けた側の人の証言で、死者の行動が明らかになった。
上流地区は江戸時代からの集落で、親戚知人が多く、それぞれ顔を突き合わせて、避難の相談をしていた。そして崖が崩壊をする10分前に家を出て、集団で避難していったのである。
この事実をほぼ一年かけて私は掴み撮影していった。
大水害から1年たった、58年7月にこの悲劇を忘れまいと、特集として放送される予定となっていた。春さきから撮影をはじめ、6月末にロケアップした。7月に入り、私は東京へ上がり連日編集に追いまくられていた。
そして、奇しくも前年と同じ7月23日、湿舌が再び山陰を襲い大きな被害を与えた。私の番組の内容は急遽変更を余儀なくされた。悔しさと新しい緊張が交錯して複雑な思いがあった。
当時、雨があがった被災地には瓦礫がうずたかく残されていた。小川がいくつも生まれて道路は寸断されていた。日曜日でも当時2歳の息子を連れ、ガタガタの道をぬけて現地に通った。こどもは何もわからず退屈そうに廃墟をながめていた。
その息子が今ではディレクターとして番組を作るようになっている。あれから20年の歳月が流れたのだ。

目黒川の桜並木。雨をたっぷり含んだ緑があざやかだ。
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