おふくろ
明け方、母の夢を見て目覚めた。遠くでカラスが一声鳴いた。
母の命日かと思って暦を見たら、2日後にやって来るのを知った。3年前の12月22日払暁、母は死んだ。寒い朝だった。駆けつけた病院の霊安室で、担当の医師のお悔みをしらじらしく聞きながら、遺体を東京から敦賀までどうやって運ぶか思案していたことを思い出す。
今朝、夢で見た姿は30代の若い母だった。次弟が小学1年生だったから私は4年生の頃であろう。学校から帰ると、真っ先に「腹へった。何かない」と母に尋ねる。たいてい何もないが、たまに母が「そこにあるやろう」と声が返ってくることがあった。水屋の引き戸を開けるとふかしたサツマイモがあって、それを見つけたときは本当に嬉しかった。昭和34年、貧しいおやつだった。我が家だけが貧しいわけでなく日本中が貧しくひもじかった時代のことだ。甘いものなどクリスマス、正月、お祭り、遠足の時しか与えてもらえず、間食は寒餅、干し柿、昆布の切れ端などであったから虫歯など一本もなかった。
晩年の母を思った。敦賀の家で母が一人暮らしを始めて10年ほど経った頃、ひょんなことから月に一度京都の大学で教えることが始まり、その帰りには湖西線をたどって敦賀に戻った。滋賀の大津に母の実家があった。私もそこで生まれた。琵琶湖と比良の山並みの動静を土産に、母の待つ敦賀へしげしげと帰るようになったのは1998年の春からだ。
土曜日の夕暮れ、家の戸を開けると、いつもにしんなすびのおばんざいの臭いが漂った。料理が苦手な母の唯一の得意レシピで私の好物だった。食卓には敦賀の近海で取れたキスやいか、ヒラメなど白身魚の刺身が並べられた。炊き立てのあつあつご飯とみょうがの味噌汁。そして、高血圧症である私にはタブーであるはずの塩分たっぷりのへしこ。冬は卵がいっぱいつまったせいこ蟹がテーブルの真ん中にあった。
10年通ったがいつも同じ田舎料理。私には何よりのご馳走だった。母と向かい合って食事をとった。母は私の仕事や家族のことをあれこれ聞いたが、私は「ああ」とか「うう」とかしか言わずろくに返事もしなかった。今思えば、なぜあのときもっと身を入れて母の話に耳を傾けてやらなかっただろう。
母は少女時代にキリスト教の信仰を得た。京都五条坂の教会で洗礼を受けた。やがて結婚して父も信仰をもつようになり、一家5人は教会へ通うようになった。雪の積もったクリスマスは我が家のもっとも晴れがましい夜だった。
母が2010年晩夏に倒れたとき、母の歌集を急いで作ったことがある。そこに載せたクリスマスの短歌。
幼き吾子三人を連れて雪道をクリスマス礼拝へと行きし遠き日
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