穀物のない水車のように
久しぶりに映画を堪能した。2006年のドイツ映画「善き人のためのソナタ」。前に、少しだけエピローグを見ていて、結末は知っていたが、全編通してみるのは今回が初めてとなった。
1984年の東ベルリンが舞台。悪名高い秘密警察(シュタージ)の一員ヴィースラーが主人公である。彼は、反体制の疑いのある劇作家ドライマンと愛人の舞台女優クリスタを監視するよう命じられた。ドライマンのアパートに密かに侵入して、盗聴装置をつけ、さらにはその屋上のアジトで監視する体勢をとる。ドライマンは自由を奪った東ドイツの社会主義体制を憎んでいてもけっして口にすることなく、そこそこの社会的成功は得た劇作家。愛人のクリスタは女優として名声を博してはいるものの薬物を使用し、かつ権力者から言い寄られて拒否することもできず不安定な境遇にある。この二人の一部始終をヴィースラーは隠しマイクを通して知っていく。
ドライマンの友人に反体制であるとして10年以上仕事をほされた演出家がいる。かつてはブレヒトも活躍した東ドイツの演劇シーンで高名をはせたが、政府の逆鱗に触れた芝居を演出したことから、長く舞台から遠ざけられて逼塞するという人物だ。ドライマン以外の友をもつこともせず、置かれた境遇を嘆くしかない演出家。あるとき、彼はその無用の人生を穀物のない水車のようなものだと例える。
自分の身の置き所がどこにもない。それはまるで挽くべき小麦やその他の穀物をもてない水車のようなもので、ただ意味もなく水流にのって水車を回すしかない「無用の人生」。演出家はそう断じたのである。
映画を見ながら、深いところから密かなささやきを聴く思いがした。仕事もだんだん減っていくおまえのこれからの人生。それもまた穀物のない水車と等しいのではないか、と。
週末、大磯の家でひとり居て、過去の品々を整理した。亡き母が私のためにとっておいてくれた小学校時代の通信簿や作文を目にして、母の思いの一端を知ったような気がした。そのまま隣の棚には息子の作文や赤ん坊時代のガラガラがある。家人が子供の思い出の品として保存したのであろう。冷えきった山の家で、私はすっかりセンチになった。
12月1日。33年前に息子が誕生した日である。あの日の朝、陣痛が始まってからの夫婦の慌てぶりは今も忘れない。ドタバタと聖マリアンナ病院に駆けつけてから、出生まで。さまざまなことが甦る。
ひとつの命の誕生と水車の例えのような人生。なにか深淵を覗くようなイリュージョンが、やつぎばやに眼裏にフラッシュする。
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