びわの実がたわわになっている
人生を少し長く生きていれば、人間関係の煩わしさなど誰でも感じることだ。
うまくいっているときはいいが、一度こじれるとこれほど厄介なものはない。
私がしてあげたのにあの人はそれを当然のように思っている、それどころか酷い仕打ちを
受けた、思いやりがない、など無間地獄に陥る。うんざりするほど瑣末なことに人はとらわれてしまう。
あの凛とした橋本多佳子すら、人の世の鬱陶しさを詠んだ句がある。
うとましき 人離るれば かげろへり
小人閑居して不善を為す――暇な奴はろくなことをやらない、の格言どうり、ここ数日の私も碌な者ではない。酒を呑んで、羽目を外して、翌朝歯を磨きながら後悔して、の繰り返し。自己嫌悪、自己憐憫、自己処罰、と内心忸怩。
小人(しょうじん)は修業が足りないものよ、やはり大人(たいじん)にならないと
なかなか克服できないもの。常々、超俗の人生を送った人物はそんなことと関わらず、毅然と自分の人生を確立してきたと敬してきた。
芭蕉などは20代で「出家」したようなもので、俗世を避けてさだめし立派に生きたであろうと、ずっと思い込んできた。
「奥の細道」にこんな一節があることを昨夜知った。細道の旅に出て百日余、七夕が間近の記述だ。有名な「荒海や 佐渡に横たふ 天の川」の句の、前文だ。
《 鼠(ねず)の関こゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)をあらためて、(中略)
此間九日、署湿の労に神をなやまし、病おこりて事を記さず 》
飯田龍太によれば、「署湿の労」とは事実上旅先での人間関係の不快な出来事と解釈できるという。同行した曾良とのことではなく、俳諧の越後の後援者らとの人間関係のことらしい。俳諧とは座の文学だが、座はいつも和気藹々であるばかりでなく、時には紛糾することもあったようだ。
そんな人間関係に芭蕉は閉口して病気にまでなったと聞くと、同情するとともに、なぜか親しみを感じてしまう。
芭蕉と曾良
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