冬が来た
すっかり冬になった。北海道の人が、今年は夏からすぐ冬になったと語っていたが、その実感に近い。
長い間、ブログの記事を書く気になれなかった。何かが心のなかで邪魔をしているのだ。そいつは、朝の瞑想を終えた頃になるとひょこひょこ顔を出す。7時を回ると、そいつはドタバタと俺の腹のなかで騒ぎ出し、ついにはパソコンのキイを打ち続ける気力をなくすというもの。そのかわりに、「鬼女」や「かぞくちゃんねる」のスカッとする話などのゴシップ記事や人生相談の記事をネットサーフィンするというくせがついた。
今朝は、そういう記事に目を配るのをやめて、自分の記事作成に集中しようと思う。
今、大江さんの新しい著『晩年様式集』を読んでいる。「3・11後」の大江さんをモデルにした作家長江古義人が主人公の超私小説だ。
この物語の重要な事柄にエドワード・サイードの評論『レータースタイル』とテレビ番組「放射能汚染地図」がある。この後者に私も少し関係することもあって、その扱いが読書中もずっと気になっている。
「放射能汚染地図」は、広島時代の友人Oがディレクターとして取材構成した作品。あの年の初夏に放送されて大きな反響を呼んだ。それを大江さんは視聴して大きく揺さぶられていたのだということを、今回の小説から読み取ることができる。長江古義人の行動として描かれた場面。
《この日も、福島原発から拡がった放射性物質による汚染の実状を追う、テレビ特集を深夜まで見た。終わってから、書庫の床に古い記憶とつながるブランディーの瓶が転がり出ていたのを思い出して、コップに3分の1注いで戻り、録画の再現に切り替えたテレビの前に座った。あらためて二階へ上って行く途中、階段半ばの踊り場に立ちどまった私は、子供の時分に魯迅の短編の翻訳で覚えた「ウーウー声をあげて泣く」ことになった。》
このくだりについては、大江さんはかなり詳しく洟泣した理由を説明している。
原発事故が起きて1週間ほどの福島県内。避難指示が出て、ひとけが絶えたなか、灯りをつけた一軒をOが訪ねていく。そこの家の主人は子馬が生まれそうだから家を離れるわけにいかないという。翌日の夜Oが再び訪ねていくと、子馬が生まれたことを告げられる。
《しかし飼い主の暗い声が、生まれた仔馬をあの草原で走らせてやることはできない、放射能雨で汚染されているからといった時、それは降りしきっている細雨を実感させた。》
われわれ同時代を生きるものは、この放射性物質で地面を汚染させた。「われわれの生きている間に恢復させるとことはできない」
この思いに圧倒されて、古義人は泣いたのである。
『晩年様式集』の冒頭の場面である。「3・11」を描いた小説で、これほど美しい表現を私は他に知らない。
昨日、Oにこの小説のことを告げると、彼はもうしっかり「群像」に連載されているときから読んでいて知っていた。私がこの場面の美しさとその契機になったOの仕事を讃えると、うれしそうな声がかえってきた。
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