お聖さんこと、田辺聖子のエッセー「かるく一杯」を読んでいたら
〈巻ずし一本、まるまる食べたい〉という悲願と出会った。
昭和22、3年ごろ、お聖さんが大阪で金物問屋の事務員をしていた時期、食欲だけが
旺盛で10円安いきつねうどんを探し回った話の中に紹介されていた。
何を食べてもすぐ空腹になり、何を食べても美味だったとお聖さんは回想する。
闇市に行くと巻ずしはあったが、米をもっていかないと鮨を売ってくれない時代だった。
巻ずしは高価でぜいたくな食べ物だった。働いていたお聖さんにとって食べられないことはなかったが、父をなくし母一人で食べ盛り3人を支えているのを見ると、それはできなかった。
《私はどうかして巻ずし一本を一人で食べたいものだと熱望した。私たち家族は、何でも分け合って生き延びてきたので、私がひそかに一人で一本分食べることは憚られた。といって、四人で分けるとふたきれぐらいしか、口に入らない。》
お聖さんが巻ずしを渇望している頃、私は生まれた。それから8年経っているから、世の中少しは豊かになっていたはずだ。小学校2年の冬、納豆というものを口にした。私のふるさとは関西文化圏だから納豆を食べる習慣はなかった。だから、初めて食べたときこんな美味しいものをたらふく食べたいと思った。
我が家も食べ盛りの男の子が3人いた。父も若かった。三角納豆の半分を父が食べ、残りを3人で分けた。時々、父は一人で全部食べた。羨ましいなと見ると「子供は全部はだめ、大人になってから」と母からたしなめられた。
算数が私は苦手だった。通信簿は3だった。ある時父が言った。「お前の算数が上がったら納豆を全部食べさせてやる」
私は九九を必死で覚え、掛け算を練習した。一学期終わると、通信簿が4に上がった。
終業式で夏休みの注意を聞いて家へ意気揚揚と戻り、通信簿を見せた。父が褒めてくれた。
「じゃ、納豆ね」と私が言うと、母があれは冬しか売られてないから今はないよと言う。
なんだ約束を破ったのかと、私は通信簿を投げ捨てた。途端に父の手が私の頬に飛んできた。
「嘘つき!」と捨て台詞を吐いて、泣きながら私は廊下の端にある机にまで行って突っ伏した。泣きながらそのまま眠った。
気がつくと、夕方になっていた。弟が「にいちゃん、ご飯」と呼びにきた。味噌汁のにおいが漂っていた。憮然として、ちゃぶ台の前に座った。弟が、にいちゃん何をしてたのと
私の顔をのぞきながら聞いた。私は目の下をこすりながら照れくさいのと悔しいのが半ばして黙って味噌汁をすすった。
そっと上目遣いで、父と母を見ると、二人とも知らん顔して口を動かしていた。
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