4日間
夢のような京都の4日間が過ぎた。
月曜日から木曜日までの全日にわたる集中講義。今年のテーマは映像で描く歴史とした。
これまで集中講義という1本勝負をカバーするのは映像の技法だったのだが今年は変えた。
映像で歴史を認識するとはどういうことか、果たして映像は認識する道具として有効かということを集中して考えてみたいと思った。
1日目は映像の成り立ちとその特徴について語った。テレビ映像にはドキュメンタリーからドラマ番組までさまざまな番組がある。実写と虚構、そのハザマはどのように成り立つかを2本の作品を比較しながら考えた。
2日目は戦争を映像はどう捉えたかという点に絞り込んだ。ひとつの手がかりとして、去年作られた秀作「おじいちゃんと鉄砲玉」を取り上げ、そこで沈黙する証言とは何を意味するかについて思索。
3日目は原爆をテレビはどう描いてきたかということ。1960年から始まり今日まで続くヒロシマドキュメンタリーの大きな流れを見つめた。原爆による被害の大きさを描く作品より、現代に生きる被爆者が修学旅行の高校生と交流する出来事のほうが受講者の心を掴んだことが興味深い。議論は核の平和利用の問題にまで及び、福島第一原発事故の提起した問題を映像はどう捉えたかということにまで踏み込むことになった。
4日目は全体を総括するとともに、映像のもつ記録性だけでなく表現性にも言及した。一つの例として「闘う三味線」の登場人物について思いを巡らした。
朝10時から夕方6時まで、小さな休憩を除いてぶっ通しで講義する。聴講する学生は9人。大学3年から院生までの男女が真剣な目で向かってくる。居眠りする者はひとりもいなかった。中国からの留学生、国文学を学ぶ者、現代史学を専攻する者、民放に内定した院生、進むべき道が決まらず迷う4年生、それぞれが自分なりの課題を持ちながら、この集中講義に向かってきた。その真剣さが清々しかった。
春から2つの大学で毎週授業をした。ひとつは230名の受講者がいた。それなりに刺激はあったが、あまりの多さに閉口し草臥れることのほうが多かったが、少数精鋭の集中講義は「膝詰」の真剣勝負で久しぶりにこちらの闘志も掻きたててくれた。
木曜日の夜。授業をすべて終えて新幹線のぞみで東京向かったとき、慰労の缶ビールを飲みながらしみじみ楽しかったと、9人の学生たちに感謝した。
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