悲観
3年前の悪夢を思い出す。フクイチ(福島第1原発)が次々に壊れていった時期の恐怖だ。あの頃からブログへ書き込むことも減った。ネット空間に発言することも知らず知らずのうちに控えるようになった。書く事が減った理由は、ひとつはフクイチの事故への恐怖であるし、もうひとつはハイパー空間への怖れだったのかもしれない。
一昨日、年来の友人と一献傾けたとき「最近のあんたのブログは暗いねえ」と指摘され気がついた。発言も減っているし、書く事も暗い。なんだかネクラの老人の繰り言みたいだぞと言われた気がした。
たしかに思い当たるフシがある。それまで自分の思いの丈を書き散らしていたが、ある筋から控えるようにと干渉されたり、悪意のようなコメントを聞いたりしているうちにブログへの意欲が減退していった。なによりこの記事の第1の読者だった母が3年前に死去したことが大きい。田舎に住んでいてめったに手紙など書かなかったが、こちらの動静はこのブログを通じて母は知っていた。だから老母を励ます意味であれこれ書いたものだ。そのなかに冬のソナタに関する話題もあった。(母は冬ソナにかなり魅惑され、晩年はグッズをかなり集めていた)
ここで発言することは大海に投げ込む瓶通信のようなものでと書いたことがあった。どこの誰が読んでいるかもしれないが、思わぬ出会いがあって楽しいと書いたのだが、思わぬ悪意にも出会うという体験もした。その影は遠いところにあるわけでなく意外に近場にあるという気もする。定年で仕事場の鎖が緩くなったので少し気が楽になったものの、そのしがらみは消えたわけでない。
昨日9月3日は家人の誕生日だった。帰りに駅の花屋でトルコ桔梗一輪買った。家に戻ると不在だったから花を渡すのは遅くなった。
関東ローカルのニュースを見ていたらドラえもんの誕生日が9月3日というトピックがあって思わず笑った。
不思議なことに9月3日は20年前に死んだ父の命日でもある。
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