死者を思う月
8月は日本人にとって、6日の広島の日、9日の長崎の日、15日の終戦の日と、先の大戦の傷が次々に並ぶ月となる。旧暦のお盆もからんで死者に思いを馳せることが多くなる。
この時期に公開される邦画は、「少年H」にしろ「風立ちぬ」にしろあの戦争を背景にした物語が大きな「売り」となる。テレビはもっと露骨に戦争関連の番組が各局とも10日から15日にかけて編成される。こういう現象を「お盆ジャーナリズム」という。
昭和55年頃から、私もそういうお盆ジャーナリズムにすっぽり関わって来た。毎年、夏が来れば、あの戦争についての言説をさまざまな切り口で描くことを大事な「使命」と考えて来た。だから、お盆ジャーナリズムと揶揄されても、マンネリと批判されようとも気にはしなかった。
あの戦争が終わって68年。確実に戦争の記憶は当事者のものでなく、継承した者の記憶に遷移しており、類型化したものになっていくことは避けられない。だが、一方では、古い戦争は風化しても、新しい戦争の気配が立ち現れて来ているのではないだろうか。新しいものは記憶でなく予見というか予感というか、68年の記憶の積み重ねの「外延」のようなものとして、現前化している気がしてならない。死者を思う月は、未来の死者も含めて思うべきであろうか。
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