68年目のヒロシマ
今年も8月6日が来た。朝から東京の空は暑い。雲があるせいかどんよりとして蒸し暑い。
私が生まれる3年前の夏の、戦争末期に、原子爆弾がヒロシマの街に実戦投下され、20数万の人が其の年の暮れまでに亡くなった。
瞬時の破壊力もさりながら、その後の後障害で苦しんで緩慢に死んで行った人たちのことを思うと、この核兵器は絶対に人類とは相容れない絶対悪だと被爆者たちは喝破したにもかかわらず、国際核権力は戦後68年の間にいつも政治カードとして弄んで来た。
私が原子爆弾と出会ったのは昭和57年の夏。長崎に赴任したときから始まる。やがて1992年に広島へ転勤異動して、さらに原爆の惨禍のことを考えるようになった。放射線障害がどれほど人類に大きな苦難をもたらすかということを、「知識」として蓄えたものの、本当の恐怖を知ったのは一昨年の福島第1原発の事故のときだった。1号機から4号機まで冷却不能になったという情報が流れたときから数日間は生きた心地はしなかった。これで日本の東半分は壊滅すると覚悟したことも一再でなかった。
結局、正確なフォールアウトの情報もなかったが、大きな核汚染の魔の手が関東から東北にかけて広がったであろうということを知ったのは二ヶ月ほどあとのことだ。このときの政府の対応の愚かさはあまりに酷い。しかし、これを民主党の、菅の問題だけですますことはできまい。むしろ、其の前から原発政策を推進してきた自民党の問題であったはずだ。にもかかわらず、昨今では原発再稼働が公然と語られるようになったことに、大きな違和感をもつ。
あれ以来、広島原爆の日は他人事でなく、その放射能禍を身にしみて感じるようになっている。そして、この恐怖は今も続いている。
今年の初めに起きた北朝鮮のミサイル発射事件は、その恐怖を上書きするようなものであった。核事故は原発の事故だけでなく、原発破壊攻撃でも簡単に起きるということをまざまざと知らされたのだ。
今朝も、広島平和公園に被爆者たちの顔が並ぶだろう。その顔に飯館村の、川内村の住民の絶望と恐怖の顔が重なって見える。
6時40分。突然激しい雨が降り始めた。
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