若者といっしょに戦争を考えた
先週金曜日のMU大学での講義では、学生たちの多様な意見がコメントペーパーに記され、若者のなかの一途な思いや肉親への情愛などが披歴され、久しぶりに活発な意見が飛び交って高揚した。
1001大教室に150名あまりの学部生が出席したなかで、私は2年前放送されたETV特集「おじいちゃんと鉄砲玉」をテキストとしてとりあげて、戦争と言う大きな社会変動が個人にいかなる影響を及ぼすかということを考察することにした。
その番組のディレクターの久保田瞳が自分の祖父の死にまつわるエピソードを、自らリポートして紹介している。NHKではめずらしい私ドキュメンタリーだ。
佐賀県武雄市に住んでいた祖父北村源六は90歳で他界。火葬したとき、その頭蓋骨から鉄砲玉が取り出された。生前から戦争で負傷して鉄砲玉が体に残っていると北村は孫である久保田に語っていたが、それは事実だったのだと知って27歳の久保田は愕然となる。それを契機に祖父はいかなる軍歴を歩んだのか調査することにした。
16歳で兵隊となった北村源六は1式陸攻機の偵察員となり、昭和16年のマレー沖海戦に参加して、戦艦プリンスオブウェールズに一撃を与えるなど輝かしい経歴を誇ったことだけは、久保田も知っていた。ところが、それ以外のことは分からないため、祖父と文通していた戦友5人を訪ね歩いて、祖父の戦争の実態を補足しようと久保田は試みる。
昭和19年、戦争末期。北村は鹿児島の鹿屋基地にあって、特攻の誘導機に乗務していた。
そのころ現地で知り合った女性と結婚もしていた。久保田の祖母である。当時の北村の行動を調べると、特攻機のほとんどが未帰還にあるなかで、北村機は天候不良で帰還しているという事実が浮かび上がる。戦友の証言のなかに、祖父は搭載した爆弾を未使用のまま海に投下して帰還したこともあったという衝撃的な出来事が浮かび上がってくる。
それまで英雄的な戦士として北村を見ていた孫の久保田にとって、あまりに異なる行動に久保田は涙を流す。
どうして祖父はこんな行動をとったのかと祖母に聞いても、祖母はいっさい口をつぐんで語らない。戦友たちに聞いても、あいまいな答えしか帰って来ない。
さらに久保田は調査をすすめると、下士官であった北村のなかに軍の上層部に対する反抗があったことを示すような遺品や証言が飛び出してくる・・・。
このドキュメンタリーを視聴したあと、私は3つの問いを学生たちに出した。
孫の久保田はなぜ泣いたか。祖母はどうして口をつぐんでいるのか。戦友たちはなぜ北村の行動についてあいまいな証言しかしないのか。
この問いに対する答えが実にさまざまであったことが、私を昂奮させたのだ。けっして通り一遍の型どおりの解釈で済ませていない。学生たちは北村のなかにあった複雑な思いにしっかり身を寄せて、この出来事を読み取ろうとしていた。
戦争という異常な空間のなかで、25歳の若者が必死で生を生き抜くことに学生たちはリスペクトしながら、その行動を批評したのだ。
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