極限芸術 〜死刑囚の表現〜
どうしても、その絵たちを見たくて、福山まで行って来た。
福山駅から市営バスで30分、鞆の浦にその美術館鞆の津ミュージアムがある。そこで4月から死刑囚の絵が展覧されている。
其の絵のことは先週知って、ネットで見本例を数点見て、心が動いた。(この絵を見ておかないと後悔する)
目黒を朝8時に出て、品川へ。新幹線のぞみ博多行き8時37分に乗ると、福山には12時12分に着く。その間、堀川恵子さんの書いた「死刑の基準/永山則夫」を読む。あらためて知ったのだが、永山は私と同世代。昭和24年6月に青森で生まれているから、学年は永山のほうが1年下になる。雪深い津軽の鄙びた街や北海道の港町を転々として生きた。父は失踪し、母の手で育てられたが、8人の子供を手に余して、則夫たち3人を北海道に残して母は津軽へ帰ってしまう。其の年の冬は悲惨であったと永山が語っている。永山は兄たちからリンチを受けていた。
激烈な幼少年時代を送った永山は、集団就職で東京へ出る。彼が最初に勤めた渋谷のパーラーは今もあって、通勤の行き帰りは其の店の前を通る。にしむらという看板を見ると、永山がここでボーイとして不器用に働いていた姿が浮かんで来る。だが上司によって過去の万引きなどを仲間の前でばらされ、永山は半年でそこを辞める。そこから次々に事件を起こし、ついに4人を殺害する「連続射殺魔」となっていく。
同級生で、いつも給食費をもって来れず、冬の寒い朝も裸足で廊下をぴょんぴょん跳んでいたYくんを思い出す。暗い目をしていたが、喧嘩のときだけ爛々と燃え上がり、普段の気弱そうな顔とは違う顔を見せた。そのY君も金の玉子と言われて、京阪地方の工場へ集団就職へしていった。私らの時代、大学へ進学するどころか、高校へ行くのすら二割ほどしかいなかった。大半は稼業を継ぐか集団就職で都会へ出て行ったのだ。永山の暗い青春を読みすすめていくと、いつのまにか自分のまわりの人々のことが甦って来る。
この「死刑の基準」がたしかに福山行きを決意させたにはちがいないが、死刑囚の描いた絵が300点現在展覧していると聞かされたとき、フランシス・ベーコンの絵と同じくらい、きっと私に重要になるにちがいない、そう思い込んだ。
鞆の津ミュージアムでは、1時間半アートグリュット(極限芸術)に見入った。林真須美死刑囚の絵は・・・。(続く)
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