村上春樹の最新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んで
おそらくぼくが読んだ村上作品のなかでももっとも好きな作品のひとつであろう。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」という持って回った思わせぶりなタイトルも、一読後には十分に納得するものとなった。そのことをまず告白しなくてはいけない。つまり、孤高主義を少なくとも日本のマスコミに対してはとる村上の流儀はこれまでもスノッブに思えてならず、この最新作のタイトルに対してもどうせ格好をつけたものだろうと高をくくっていたが、その小説の正味はけっして半端でなくまさに魂のど真ん中に飛び込んでくる作品であったことを正直認めざるをえない。
名古屋の仲のよい5人組の高校生がいた。それぞれ名字の一部に、アカ、アオ、シロ、クロといった色彩の語をもつなかで多崎つくるだけは違っていた。その彼に受難が訪れるのも記号論的にはある意味当然だが、そんな小説のような設定ってあるかとツッコミを入れたくなるような、剥き出しの小説のオープニングにまず鼻白んだ。ところが、そんなものに乗せられてたまるかという反発も、章を重ねて頁を繰るうちに薄らいでいった。物語に対する違和感を次第に失っていった。(つまりぼくは村上ワールドにまっしぐらに落ちていった)
男3人、女2人のグループの均整のとれた親密のなかで、つくるだけが他の4人から絶交を申し渡される。つくるにはまったく身に覚えのない咎(とが)が発生したようだ。そして、そのために死ぬことを考えるほど、つくるは追い詰められた。まったく別人のような相貌に変化するほど苦悩したつくるは16年間生き延びることになる。そして・・・。
――新しい恋を得るなかで、つくるは16年前の真相を知るべき旅に出ることになる。
新しい恋の相手沙羅はつくるより2歳上のキャリアウーマン。この二人の関係描写にぼくはいささかの安堵と共感をもった。そうだ、これぐらいの救いがなくてはつくるの人生はあまりに理不尽・不条理ではないかと、ぼくは義憤をいだいていたのだ。ぼくにはつくるの人生を支援したい個人的体験があった。
読み進めるうちに、この物語はぼくの物語だと思うようになった。
大学を出て2年目、ぼくはぼくの「巡礼の年」と遭遇した。ぼくは納得できなかった。なぜこの段階で喪失というものが発生するのか、まったくぼくには理解できなかった。その不条理に10年耐えて、新しい恋に進むことができたぼくにとって、この小説は他人事には思えなかった。
村上はなぜ2013年のこの時期(保守派がぐんぐん勢力を伸ばしている)に、こんな物語を発表しようと思ったのだろうか。地下鉄サリン事件のドキュメントを記して、社会性に手を出してかけていたこともあった村上。イスラエルで中東の現実の争いにコミットすることもあった村上。その村上が60代になって、なぜこんなナイーブな物語を書いたのか。
さらに、これまで村上ワールドにはなかった同性愛に対する憧憬がこれほど滲みでたのは何故か。灰田という2歳年下の男子に対するつくるのまなざしはかぎりなくせつない。
この連休のなかで、この読書をできたことが最大の収穫であった。ぼくは万緑の大磯の森のなかで、あの物語をもう一度思い返して、寂しい喜びに全身で浸っている。もうひとつ思いがけず、以前購入して積んでおいた柄谷行人著『倫理21』(2000年)を読破した。戦争責任の問題点というやつが、これを読んでやっとわかった気がする。得した気分。
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