林山一三くん
1959年、少年マガジンが創刊されたとき、創刊号の表紙は朝潮が飾った。当時、若乃花が第一の人気者であったが、ぼくは朝潮が好きだった。其の理由をすっかり忘れていた。
4月28日、日本が講和条約発効した日で、主権を回復したということを祝う式典が安倍政権の手で執行された。それに対して沖縄、奄美で反発する声があがり、現地では多数の住民が集まって反対集会が開かれた。主権回復の日ではなく国民屈辱の日ではないかと、住民たちは怒った。
沖縄・奄美には講和条約の恩恵はなく、それから20年の間もアメリカの施政下におかれたのだ。
小学校二年生のとき、ぼくは林山一三君と友だちになった。家の裏に広がる水田の向こう岸に林山君の家があったから、毎日のように遊びに行くようになった。彼の家は工務店を営んでいた。裏庭へ回るとたくさんの建材が所狭しと並んでいた。隣接する事務所にはおおぜいの職人や日雇いが出入りしていた。
林山家は奄美大島の出身だと聞いた。イッチャンの目は大きく眉は朝潮のように太かった。おっとりしたひととなりはたしかに南方出身のおおどかさを連想させた。
イッチャンとぼくは林山君を呼んだ。イッチャンはめったに怒らなかった。いつもにこにこしていた。自己主張しないイッチャンが唯一力説したのが大関朝潮の偉業だった。朝潮は日本本土から遠く離れた南海の奄美からやってきて、厳しい稽古で有名な高砂部屋に入門して精進の挙げ句、立派な大関になったのだと力をこめて語った。そういうときのイッチャンは普段の温和な表情とまったく違うものであった。ぼくもイッチャンのひいきに影響され太い眉の朝潮のファンになった。
5年生の3学期になった頃、ぼくはイッチャンと喧嘩をした。原因は覚えていない。仲直りしたかったが、イッチャンは僕を避けるようになった。仲違いは長引いた。そうして3月の学期末をむかえた。
ある日、担任が林山君は大阪へ引っ越すことになったと告げた。まったく予期しなかったのでひどく驚いた。授業が終わったあと、お別れの会が開かれ、イッチャンは挨拶をした。大阪へ行くことになったので、いつかみんなと大阪で再会できると嬉しいのだがと口べたな彼はぼそぼそと告げた。
下校時、ぼくは下駄箱の前でイッチャンを待った。イッチャンは机のなかのものを整理して、両手いっぱいにもって現れた。ぼくが近づくとイッチャンは顔をそむけ、付き添っていた橋本君に話しかけた。どうやらぼくを無視(シカト)したいらしい。悲しかったが、このままイッチャンと別れるのが辛く、ぼくはイッチャンの後ろからついていった。帰り道、イッチャンは一度もぼくを振り返ることもなく、口をきくこともなく別れた。彼がいつ大阪へ出立したか、どこに住むことになったか、ぼくはまったく知らない。1959年の春のことだ。
彼が去ったあとの春休みに少年マガジンが創刊された。表紙の朝潮の写真がうらめしかった。ぼくはイッチャンと仲直りしたかったのだ。
ーーあれから54年、イッチャンのことを忘れていた。奄美屈辱の日のニュースを見ていて、ふと彼の太い眉を思い出した。彼の弟の名前がケイゾウだったことも思い出した。
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