65歳の春分の日
母こひし夕山桜峯の松
泉鏡花の句だ。一見月並みな口調だが、幾度も見つめていると、鏡花の母恋の思いがそこはかとなく響いてくる。老いて父母を思う気持ちはまさに夕山桜のような心象だ。本日は春分の日にして、東京は開花宣言を一昨日している。数日後には鏡花の詠んだこの風景に出会えるだろう。この節は彼岸でもある。亡き人を思う日でもある。
65歳という「老年」にいたって父母を懐かしむ気持ちがつよくなっていく。同様に若い日を惜しむことも。
堀口大学の「夕ぐれの時はよい時」にこんな一節がある。
また青春の夢とほく 失ひはてた人々の為には、
それはやさしい思ひ出のひと時、
それは過ぎ去った夢の酩酊、
それは今日の心には痛いけれど しかも忘れかねた
その上の日のなつかしい移り香。
青春を遠くする身の上には、夕ぐれこそ慰めであるとでも堀口大学は説いているのだろうか。過ぎ去った日のことは心に痛いけれども、しかも忘れかねた「なつかしい移り香」。苦いようなすっぱいような心持ちがよみがえってくる。
こういう感情をひっくるめて、老年のセンチメンタルとでも名付ける。
それにしても・・・それにしてもだ。古来、大家と呼ばれる人たちもたくさんの老年センチメンタルを作っているものだ。
三好達治、最晩年の詩群「百たびののち」にこんなフラグメントがある。
日は片曇り はたた神うしろの空に閃めけり
遠き別離をふたたびせよ
人生の前半に別離があって、そして後半にふたたび別離がある、ということか。最初の別離がどれほど人生に深い跡を残すか、終幕が近づくにつれて露になっていくものらしい。
* *
話はがらりと変わるが、初代吉右衛門は俳句をよくした。先日、目黒図書館で『吉右衛門句集』を見つけて繰り返し読んでいる。
この人は昭和17年当時の京都が好きで、よく詠んでいた。
清水の坂の途中にしぐれけり
ああ、こんな時間を去年まで通った大学で私ももったなとしみじみ思う。吉右衛門はもっと直裁にも詠んでいる。
京が好きこの清水の冬霞
彼岸が過ぎれば晩春へと向かう。多忙な時間が待っている。あくせく働く私を、先日の句会で猫翁さんがこんなふうにひやかした。
身捨つるほどの会社はありや
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