桜えびの季節が来ると
昨日は一日中家にいて本を読んだりVTRを見たりしていた。
久しぶりに工藤さんの「廃船」を見て心臓を短刀で衝かれた.
1カット1カットが取材のときから方向を決めて撮影されていたいまどきのどうにでもなる使いやすい汎用カットではない。後処理でやりくりするような方途はとっていない。事実カメラの葛城哲郎が撮った映像が秀逸。
中西龍が語るナレーションのコメントは画像におもねらず否定もせず、あえていえば止揚させるような”正しい”役割を担っている。工藤敏樹の「声」として。
画面全体からあふれてくる緊張感。1969年のフィルムドキュメンタリーの作品である。今見ても少しも古びていない。
3年前の1966年、安全丸という曳船に乗って工藤さんは神田川を登ったり下がったりしていた。そのとき、東京湾河口の夢の島で廃船を、工藤さんは見つけたと伝説が残っている。ことの真偽は知らないが、そういう話があってもいいほどの作品、ドキュメンタリー「廃船」だ。
河口で見つけた船は東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」。船体が傾き使い物にならない姿で係留されていた。その船の前身は調べると、「第5福竜丸」。あのビキニ事件で被爆したマグロ漁船だった。現在記念館のなかに保管されている福竜丸の、最初に発見されたときの姿である。
それを見つけてから3年。工藤さんは船の歴史を調べ、かつての福竜丸の乗組員たちの消息を探し、その過酷な人生を冷静にかつあたたかく見つめてこの作品を作った。
晩年、工藤さんは乗組員大石又七さんの自伝原稿を預かり、癌末期の病身を押して文章を整えて出版化まで計った。最後まで誠実に丁寧に出演者と交流した。
その大石さんと2011年に、私は出会う。福竜丸記念館で大江健三郎さんと大石さんの対談を収録することになり、私はそこにアテンドし、大石さんとはじめて会った。このご縁はそもそも工藤さんとの繋がりから可能になったのだ。
工藤さんは1992年に58歳の若さで死去した。昭和40年代、テレビ草創の時期に佳作をいくつも作り、50年代には名プロデューサーとしてNHK特集の数々の名作を生み出、駆け抜けるように人生を生きた人。
私は1985年、長崎から東京へ転勤したときに工藤さんと出会い、亡くなるまでの7年間、もっぱら夜の居酒屋で工藤さんの磬咳に接した。
工藤さんの番組担当者として活躍した時期はまさに政治の季節であったが、ほとんどノンポリの旗幟しか工藤さんは示さない。今工藤サンのフィルモグラフィー(作品歴)をふりかえると、作品は極めて政治的な饒舌に満ちている。
「廃船」はまぎれもなく反原爆であり反核であった。
この作品を作ったあと、工藤さんは「富ヶ谷国民学校」という疎開児童の物語をドキュメントした。
渋谷の小学校が駿河湾のほとりに疎開する話だ。廃船も舞台は駿河湾の焼津。工藤さんには駿河湾は重要なトポスであった。その駿河湾は春3月になれば桜海老が獲れる。
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