犬が落ちた
異形のプロデューサー、日下部五朗の『シネマの極道』を読んだ。異形というのは身長1メートル85センチ以上あって、ごつい顔をしたいわゆる強面だから。「仁義なき戦い」を生み出した名プロデューサーだが、彼自身、黙っているとその筋の人にしか見えない。
映像の世界におけるプロデューサーの役目を、外部に伝えるのは難しい。テレビの場合でもディレクターというのはドラマであれドキュメンタリーであれ現場にいて取材もしくは撮影をして、さらに成果物としてのフィルムやビデオを持ち帰って編集をするという「実務」があるので、どういう職掌かと問われても答えはすぐ出てくるが、略称Pと呼ばれるプロデューサーの仕事は一言では表せない。
映画の場合、撮影開始のクランクインまでの脚本開発や出演交渉、予算管理などの仕事を受け持つのはプロデューサーで、その段階で映画はプロデューサーのもの。撮影が始まればその映画は監督のものになり、クランクアップして編集終了すれば映画は監督の手を離れる。出来上がったフィルムを実際に劇場にかけるまでの時期、プロデューサーは宣伝、広報に死にものぐるいで飛び回る。この段階で映画はプロデューサーのものとなる。
こうして映画が上映されて、話題となり、賞でも獲得しようものなら、たいてい映画の作者、代表はと問えば、映画監督になってしまう。
映画祭での様子を思い浮かべればよい。カンヌでパルムドールを獲った「楢山節考」、プロデューサーの日下部より監督の今村昌平のほうが映画作者として知られている。
テレビでは、監督にあたるディレクターよりプロデューサーのほうがいくぶん力を持つ。予算を担当し、品質や危機を管理するという役目がプロデューサーに与えられているから。 その存在はいくぶん映画より大きくなるが、プロデューサーがいかなる仕事をする人物か説明に窮する。
映画とテレビというジャンルは違え、劇と実写という手法の違いはあれ、同じプロデューサーとして日下部の主張する「通俗映画論」はびしびし私には伝わる。あまりに面白くこの書を手にして5時間で読破した。
東映全盛期のチャンバラ映画から始まって、任侠映画、「仁義なき戦い」に代表される実録映画、さまざまな日本映画シーンに立ち会って、ヒット作をものしてきた日下部五朗。よくもまあこれほどの多様な企画を立ち上げてきたものだと感心する。
その日下部も今年79歳になる。老齢化して馬力が減ってきたと自戒している。徹夜がきつくなり旅がしんどくなり、なによりトラブルの交渉ごとが面倒になってきたという。そういう自分を指して、日下部は「落ちた犬」だと自認するのだ。
猟犬も老いてくると、獲物をとってくるときに血のにおいに引き込まれて、自分で獲物を食べるようになる。こらえ性がなくなるというか、猟犬の要諦をなさなくなる。これを犬が落ちたというそうだ。その話に日下部はなぞらえて、犬は落ちたと自分を憫笑するのだ。
この強面のプロデューサーですら泣く子と年齢には勝てないのだ。
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