時間意識寸感
時間なんて、単なる社会的シバリぐらいにしか考えていなかった。
ところが心が壊れると、時間意識を失調するそうだ。計見一雄という精神科医が著した『現代精神医学批判』で知った。言い分はこうだ。
《おおざっぱにまとめると、鬱病者の時間は遅くなり、スキゾフレニアの時間は止まってしまいます。》《鬱病者の思考も遅くなり、スキゾフレニアの時間には間隙ができる。その間隙が極大に達すると「現在」がなくなってしまいます。》
鬱病の人は時間意識が遅くなり、スキゾフレニアの人は時間という意識そのものがなくなってしまうというのだ。スキゾフレニアとはいわゆる分裂症のことを指す。
鬱病者はものごとをなかなか決められにくくなっていく。
昼めしに行く?行かない?。ラーメンにする?寿司にする?。近場にする?遠出する?。などというようなことがなかなか決められにくくなっていくのが 鬱病者の特徴だそうだ。だんだん思考速度が落ちていく。むろん、こんな些末なことの不決定が問題になるのじゃないが。
スキゾフレニアの時間意識の例が出ていないから、ちょっと想像してみる。他日、アポイントをとったという時間をともなう意識を失っているため、今日相手が目の前に現われたことが理解できないというような状況かしらむ。単なる物忘れでなく、時間意識がないために、社会関係を軸とした時間が寸断されていく。そういう症状が発現するのだろうか。
時間は現在形だけがあるのでなく、そこに過去も未来も堆積しているのだということをフランクルから教えられたと計見さんは書いている。過去がなくなって絶望だという嘆きは無用だ、過去は依然として現在の自分の奥底に溜まっていると解説している。
目の前にあるひなげしは過去のアグネスチャンの名曲の歌詞と未来の漱石の虞美人草のイメージが重なって存在している。夏目漱石の『虞美人草』を私はまだ読んでいないので未来として扱った、念のため。
とこんなふうに時間意識を私は理解したが、どうだろう。あまりに単純かな。
鬱病になると、なる前の自分となった自分を比較して、過去の栄光や楽しさなどはもどってこないと嘆くことが多くなる。
鬱病者には時間はすべて過去に帰結する。こういう傾向はこのブログを始めたときから私にも備わっている。昔はよかった、あの頃はこうだったと、過ぎ去ったことばかり懐かしんでいる。だが病的な段階ではノスタルジアですまない。過ぎた日々から来る憤懣、怨恨、後悔などの苛烈なエネルギーに振り回されることになる。挙句、体のあちこちに不調が出てくる。情けない自分になりさがっているのを顧みて、なんとか直そうと努力すればするほど深みにはまっていく。
これ以上は素人談義で踏み込むのはやめておこう。
ただ、著者は現在と夢中になって取り組んでいるときが一番幸福な状態だという。小椋佳の名文句を引用している。「疲れを知らないこどものように」
現在というのはテレビにとっても非常に大きな存在である。大先輩のテレビ制作者が残した言葉がある。「お前はただの現在にすぎない」
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