まったく出来ていない
今度の日曜日、10月の句会が開かれる。だがまったく句が出来ていない。手持ちの句は5本ほどしかない。
機関誌が届いたのが今週月曜日のこと。だからてっきり句会は月末だと思い込んでいたので当てが外れた。兼題も秋の朝、顔、子である事を知ったのもわずか2日前である。あわてて句作しても付け焼き刃のものしかできるまい。おまけに今週は泌尿器、鍼灸、内科、歯科に通うことが多く、時間のやりくりがうまくいっていない。
そのくせ俳句の書ばかり読んでいる。宇多喜代子の『名句十二か月』と水原秋桜子の『例解・俳句〜作法辞典』の2冊。そこに掲げられている名句を読んで、うまい表現だなあ、せめて一生にひとつぐらいこのレベルの句が出来たらなあとヨダレを垂らしている。そんな時間があるなら句作しろよと叱咤する声も聞こえて来るが、なかなか実作へと向かわない。
長い句作の間には幾度か倦怠期が来ると、秋桜子は記している。3つのレベルがあるという。1は他人が詠む句が立派にみえて自分のはつまらないと思う時期、2は自分の句も詠めないし他人の句を見ても関心が湧かない、締め切りが来てあわてて句作する時期、3つめは雑誌の投句まで休んでしまう時期とあって、3つめがもっともひどい倦怠期と秋桜子は断罪している。
あちゃー。3つのレベルすべてがあてはまるではないか。
ではどうすれば倦怠期を脱することができるか。秋桜子はそこにまで目を配って『例解・俳句〜作法辞典』を書き上げている。この御仁、単なる野球好きの産婦人科医ではない。
倦怠脱出の方法として、吟行に同行したり、「できるだけ読書をしたり、展覧会に行ったり、観劇をしたり、映画を見たり、つまり芸術的のものに接する機会を多くして、回復を待つこと」としている。この忠告であれば、ほぼ実践しているのだが、私の場合、本職の繁忙があって実作になかなか結びつかないのではないだろうか。
ところで、俳句の勉強家はどれぐらいのペースで句作するのだろうか。一月に100本ほどかと予想していたらまったく違っていた。
秋桜子はこう宣う。「日課として30句は欠かさない、時には50句をつづけることもある」。一月つづけると千何百という数になるというのだ。今の私の句作の態度とはまさに雲泥の差、径庭である。
波郷の次の句。
冬の夜の皿もならさず兄妹
質素な冬の夜の食事どき。電灯の暗さや食卓の小ささなどが、「皿もならさず」に凝縮されてあると秋桜子は評価する。秋桜子の見事な解釈、読み取り。まさに句作は実作ばかりでなく採択、鑑賞することもあるのだ。そう思うと気が楽になって、今度の句会は出席して採句するだけにしておこうかなと、甘い気持ちも湧いて来る。
こんな切羽詰まった状態のくせに、昨夜は日本映画2本だてに雨中行った。「モテキ」と「テルマエ・ロマエ」の今年話題になった日本映画だ。おおいに期待したのだがまったく当てが外れた。両者とも作品の出だしはなかなか力があるのだが、中程から終盤にかけて構成ががたがたと崩れていく。特に「ローマ」のご都合主義にはがっかりした。チネチッタまで行って、千人近いエキストラを使って、絵作りに凝っているのは分かるが、シナリオがゆるい。この2作ともコミックスをベースにしている。その手法が悪いとはいわないが、もっと映画本位のシナリオで映画作りが出来ないものだろうか。小津はシナリオ作家と共同で、一句一言ずつ書き足しながら絵の構想もねっていったのではないだろうか。などとノー天気に映画ジャンルを批評しながら、自分の作句は目処がたたないという現状。
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