戦争と音楽と女性
今朝早く、自由が丘に集合した。かつて劇作家久保栄と音楽家吉田隆子が暮らしていた家に調査に入るためだ。集まったのは撮影クルー、プロデューサー、私、女性研究者。
吉田が死んだのは1956年、久保はその2年後に没している。以来、ふたりの家は養女であった久保マサさんによって守られてきた。が、そのマサさんも昨年死去し、近親の方が管理している。そして、開かずの間になっていた部屋の扉が開き、なかから戦時中の吉田隆子の心中の叫びを記したノートが出てきたとすれば、「愉快」「快挙」じゃないか。
吉田隆子。1930年代から50年代にかけて活躍した、女性作曲家のパイオニア的存在。「君死にたもうことなかれ」を作曲したり、バイオリン・ソナタ、ソプラノとピアノのための組曲「道」などを作曲したりした。ムソルグスキーの日本紹介に多大な力を貸したり、久保栄「火山灰地」の音楽を担当したり、戦前の男性優位の音楽界にあって大きな力を発揮した。ところが、現在はその名前はほとんど聞かれない。・・・なぜだろう。
その燃えるような鮮やかな吉田の行動、振る舞いは、当然にも当局から目をつけられ、弾圧される。
23歳のとき逮捕され築地署へ。25歳のとき上野署へ拘留。27歳のとき東調布署に挙げられる。そして1940年、戦争の始まる1年前の1月、碑文谷署に連行され、このときは5ヶ月にわたって拘留される。そして病がひどくなったということで6月過ぎ、急遽自宅に押し戻される。まるでズタボロの雑巾のような有様だったという。
警察で、彼女は相当ひどい扱いを受けた。食べ物もロクなものも与えられず、暴力でなく辱めという陰湿な仕打ちを長期にわたってうけた。そのために、吉田は病気となり、長い闘病に入る。ちょうど戦争期にあたる1941年から45年まで、床に伏せたきりになるのだ。その苦渋のなかで綴った言葉が、今回、肉筆でつづったものとして発見された・・・。長く行方が分からなかった記述だ。そこには、吉田隆子の血を吐くような言葉があった。
この出来事を描いた番組は、8月の第4週の日曜日の夜に放送される予定。タイトルは未定。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング