俗の俗
句会で盛り上がった。
私の選んだ句が通俗だと、宗匠が指摘したことから、議論は紛糾したのだ。
ifといふ鵜の吐き出せぬ思ひかな
もしも・・・あのとき、あの行動をとらなかったらと後悔する念を、喉元に押し込んでいる姿のアレゴリー。鵜が魚を摂って喉越しにせず留めている「悲しみ、苦しみ」を、思い出を反芻する悲しみの寓意にあつらえた句である。
そういう感情は月並みで、大衆がふと思いつきそうな“安い”ものじゃないかと宗匠は言う。
そうかなあ。喉元に悲しみが滞留しているという表現はそれほどあるとは思えないのだが。
でも、なにより気になったのは通俗な意識は俳句では敬遠されるということ。
誰しも考えるような、宣伝文句のような、語呂のいいだけの、俳句というのは駄目だ。という俳句界における戒め。
一般論としては分かるが、掲句はそういうものに該当するとは思えないのだ。
正岡子規がかつて月並み批判をした。『陳腐、平凡』という意味を含んだ、教訓的、風流ぶった、嫌味な、穿ちのある俳句や短歌を「月並み調」と批判したのだ。
朝顔につるべ取られてもらい水
これなどはわざとらしいという類例になる。
子規が挙げた句
手料理の大きなる皿や洗ひ鯉
手料理とか大きなる皿という表現がもはや月並みだと、子規は語ったらしい。そこで子規が推奨するのが「雅趣」。おくゆかしい心というのを尊ぶ。わが宗匠は、「ポエジー」ということを盛んに強調した。
でも、月並みだっていいじゃないか。そういう常套句でも、気持ちを代弁できるならいいじゃないか、という不満が私のなかにはあった。
月並みの反対に、ヘンテコリンな言葉の衝突を目論む句もある。「俳句を意味の中だけで完結させることを嫌い、自立した言葉同士が邂逅することによって生まれる新しい叙情性を追及した」摂津幸彦のような作品もある。宗匠はそういう前衛がお気に入りのようだ。
ヒト科ヒトふと鶏頭の脇に立つ
これは、よく読むと、ハ行カ行タ行の音が響きあう仕掛け。
私はこういうのは採らない。何かわざとらしさを感じて、逆に俗味を感じてしまう。
でも、なかには好きな句もある。
さやうなら笑窪荻窪とろゝそば
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