早苗ちゃん
「大学ノートの裏表紙に早苗ちゃんて書いてみた」、という歌詞で始まるフォークソングがあった。
私の時代ではない。吉田拓郎という歌い手が好きだと末弟が言っていた頃だから70年代の後半のことだったろう。歌の終わりは、早苗ちゃん、早苗ちゃんと連呼する歌だったとかすかに覚えている。
幼馴染に山口早苗さんという人がいたことを、明け方まどろみながら思い出した。同じ集合住宅の地域に住んでいたこと、美人3姉妹のなかんちゃんだったこと、習字がうまかったことなどをぽつぽつ思い出した。そういう記憶はすべて小学生の時代のことで、色気が出てきた中学生時代にはほとんどない。歩む道がまったく違ったからだろう。
2年前、母が病で倒れる前に早苗ちゃんのことを、嬉しそうな顔で話してくれたことがあった。かかりつけの病院で出会ったというのだ。「あんた、覚えているか。早苗ちゃんって可愛い娘がいたことを。あの子が先日、K医院の待合室で話しかけてきたのや」と声が弾んでいた。早苗ちゃんもお母さんの薬をとりに来ていたらしい。母を見かけて懐かしくなったのか、徒歩で来た母を車で送ってくれたそうだ。その親切が嬉しかったのか、そのときに私の話が少し出たことが嬉しかったのか、母は満足そうな顔を見せた。その表情が輝いていたことが、今も私の心を温かくさせる。
ところが、平成24年に発行された高校の同窓会名簿で、その名前を探すと住所不明者になっていた。どうしたのだろう。どういうことなのだろう。
小さい出来事、ささやかな思い出だが、住所不明という暗い言葉に飲み込まれることが悲しい。
昭和30年代の私の周りは貧しく、いつも空腹だった。北陸地方は辺鄙だから都会に比べてずっと遅れていたのだと思い込んできた。ずっと劣等意識をもってきた。東京へ出てきただけでドギマギしていた。
が、東京でも大阪でもやはり貧しかったのだということを少しずつ分かってきた。高井戸に住んでいた川本三郎さんのエッセーや上州の田園で育った南木佳士の短編、大阪人の宮本輝の小説を読むなかで、全国オール貧乏だと知る。みんな同じ体験をしてきたのだなとこのごろつくづく思う。木造校舎、雨が降ればぬかるんだ道、給食の揚げ竹輪、遠足にもっていったチョコレート、原っぱ、夜汽車の汽笛、習字道具を入れた画板。
早苗ちゃんの名前を口にすると、そんな光景が浮かんでくる。
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