戦争の記憶を追い
あの戦争から遠く離れて・・・。
この国がいわゆる交戦しない期間を続けて、67年も経過している。どうも世界史的に見ても奇跡に近いことらしい。あのパックストクガワの江戸時代でもこれほど長く戦火が絶えたという事例はないらしい。むろん、戦争になるかもしれないと危惧された局面は数回あった。私とて、物心がついてからでも3、4回ほど経験した。とうとう徴兵されて現場へ行くことになるのかと落胆した気分になったことを今も覚えている。
戦争が終わって3年後に生まれた私には、あの戦争に憧れることから始まった。少年マガジンでちばてつやの「紫電改のタカ」を愛読し、故国のため、愛するもののために死ぬということは格好いいなとため息をついていた。映画「雲流るるはてに」の宣伝スチール、鶴田浩二が特攻の軍装で敬礼をし、その横に記されたコピー、「さらば祖国よ」。いつか、自分も愛機を駆って南冥の空に消えていく。幻想のあまさに身がとろけていた。
小学校6年生になると、愛読書は戦記雑誌「丸」だった。戦艦、重巡、軽巡、駆逐艦の大半の軍艦のシルエット(艦影)と名前は覚えた。重巡「鳥海」の正面からの姿が好きだった。
父は中国戦線に行っていたらしいが、何を経験したかほとんど語らなかった。3年に一度高野山で開かれる戦友会にいそいそと出かけることしか覚えいない。軍歌も歌わない。父と年の離れた叔父がこっそり「加藤隼戦闘隊」を教えてくれただけ。私の周りのオトナたちは概して戦争にまつわる話はしなかった。
大学に入り、テレビでベトナム戦争の悲惨を知った。米軍の残酷な作戦に憤りを感じ、沖縄や王子の野戦病院の混乱を冷めた目で見つめるしかなかった。首相が安保のために訪米すると聞いたときは、これでぼくらは軍隊に行くことになるのだと、絶望した。
いかなる偶然が重なって戦無期間64年を得たのかは分からない。ただ、私は今も「戦争を知らない」。
だが、ジャーナリストになって、仕事を通して戦争経験に触れた。一番最初はスペイン戦争だった。かの国で起きた革命戦争にロマンを感じて、石垣綾子さんからスペイン戦争で戦死した日系人ジャック・白井のことをつぶさに聞いた。ここから、ピカソの「ゲルニカ」をめぐる番組やスペイン戦争と日本人というETVの特集を作ることになる。
次に、戦争未亡人を主題にしてラジオのドキュメンタリーを制作した。満州で1歳の一人息子を失い、フィリピン戦線で夫が倒れた。彼女鶴子さんの怒りは激しいもので、疎開した山梨の地をともに歩くうちに、私はすっかり鶴子さんに共感した。
その年に、私は転勤した。行き先は長崎。
そこで被爆者という人たちに出会った。私のディレクター人生が大きく転回した。1982年のことである。それから10年後、広島に私はいた。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング