初期の力
このところ、ずっと広島放送局が作り続けてきたヒロシマドキュメンタリーの系譜を調べている。
原爆が投下されたとき、NHK広島局は上流川の爆心地にあったから建物は大きく損傷した。当時260名いた職員の半数がその朝勤務していて、当日だけでも34名が犠牲になっている。中国新聞と並んで、史上初めての被爆したマスメディアとなった。
戦争が終わってしばらくは米軍が占領していたため、原爆のことはなかなか容易には放送できなかった。占領軍はラジオコードを発令して放送を縛っていた。その軛(くびき)から解放されるのは、昭和24年の占領終了まで待たなくてはならない。
やっと声をあげることができるようになったとしても、広島県域のローカル放送を通しての医療情報や助け合い番組が多かった。むろん、当時の放送は、テレビでなくラジオである。
1953年というから昭和28年、NHKのテレビ放送が始まった。広島は31年から試験放送が始まり、本格放送は昭和33年からだ。そのころはニュースが中心で被爆者の動静を短く伝えるのが精一杯で、ドキュメンタリーまで手が届かない。
昭和32年全国放送として、「日本の素顔」という30分のフィルムドキュメンタリーが立ち上がった。第1回の主題は「新興宗教」というからずいぶん大胆でラジカルだ。この枠は39年まで続いて306本の作品が生まれた。そのなかに広島をテーマとする作品が数本ある。
嚆矢とするのが、昭和35年8月6日に放送された「日本の素顔・黄色い手帳」。
担当したのは、当時広島局の社会番組担当の桜井健ディレクターだった。広島局初めてのドキュメンタリーである。黄色い手帳とは被爆者健康手帳のことで、被爆者にとっては命の守り札のような大切なものである。でも、被爆していても認定されず、その黄色い手帳を持てない被爆者もおおぜいいた。そういう貶められ捨てられた情況に対して桜井さんは憤りをもっていたのだ。
テレビ番組をほとんど作ったことのないにもかかわらず、彼はそれまで培った人の縁と土地勘を駆使して見事なドキュメンタリーを作り上げていった。
原爆報道を始めた頃の制作担当者はみな熱い。
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