失われた言葉
1945年8月6日、午前8時15分に広島市に原子爆弾が投下される。
中国新聞の報道カメラマンだった松重美人は、その朝出勤途中でトイレに行きたくなり、自宅に引き返した。それが命を得ることになる。爆心地より南東に約2.7kmの翠町の屋内で被爆したが傷は薄手で、愛用のマミヤシックスを残骸のなかから掘り起こして市内数箇所の惨状をいち早く撮影する。それらは8月6日当日の広島市内の出来事を撮った唯一の写真となる。6枚撮影されたが、1枚は露出不足で破棄され、現在5枚残されている。あの有名な御幸橋西詰の光景もそのなかに含まれる。この写真を撮影した経緯については、松重自身が「なみだのファインダー」という著書で克明に語っているが、テレビでも1983年のドキュメンタリー「爆心地のジャーナリスト」(1980年)というなかで、そのときの心境をインタビューで答えている。
そのドキュメンタリーを試写していて、ふと気になることがあった。御幸橋付近で撮影をしようとしていたときのことを松重が説明する段だ。あまりに凄惨な姿に成り代わっている女学生や中学生たちが哀れで痛ましくて、松重はなかなかシャッターを切ることができなかった。最初のシャッターを落とすのに30分はかかったという。その心境を、中国新聞の西本記者は、「報道カメラマンの使命とはいえ、シャッターを切るにはためらいがあった。逃げてきた人たちを後ろから一枚、二枚と撮り、顔をアップでと回り込むと、あまりにむごくて…もう撮れなかった」と表現している。被写体は年端もいかない中学生や女学生だった。まだオトナになりきれていない幼い体のあちこちから、裂かれた皮膚が垂れ下がっている。痛みにも恐怖にも、神経が麻痺しているのか反応を示さない。そして、上述したようなコメントを、テレビドキュメンタリーでも、松重さんは語っているのだが、奇妙な言葉の断片が、映像を鋭く切り裂く。
あまりにひどい光景に息を呑んだという言葉の前に、「アメリカは・・」という松重さんの言葉が稲光のようにきらめいたのだ。その語は他の言葉と絡むことなく、すぐやみの中に消えてしまう。短い言葉だが、映像を見る者の脳天をがんと打つ。
松重は何を言いたかったか。〈アメリカは何とひどいことをやったものか。あまりに惨い仕打ちではないか。けっして許すことのできない、悪逆無道の行いだ。アメリカの罪は・・・・・〉というような言葉が続くはず、アメリカの加害を問う言葉だったのかもしれない。だが松重さんは途中で言葉を飲み込んでしまった。番組は、そんな言葉に拘泥せず、淡々と進行していったが、飲み込まれた言葉は時間が経つほどにだんだん大きくなってきた。
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