愁時雨/愁殺
京都の宿で、朝ぼんやりしていたら、猫翁さんから電話があった。1月の句会とつげよしはるゴッコの連絡だった。
「今、何しているの」
「憂鬱な気分で、京都にいます。ぼんやり高瀬川を眺めております」
呵呵と大笑する猫翁。
「京都で愁いを持つと、愁いは最大化するよ。京都って町はそういうやつだ」とのたまう。
「じゃ、どうすればいい」
「すぐ帰京ですな。そこを脱出して、危険極まりない21世紀の都東京こそ、キミを待っている」「幸運を祈る、さらば」と、まるで怪傑黒頭巾かMI気取り。だが友情が嬉しかった。
昨夜、今村昌平の「にあんちゃん」を見た。モノクロで昭和30年代の作品だが、けっして古びていない。それどころか実に立派な映画であることを知った。
小学生の頃、同名のこどもラジオ小説の時間が楽しみで、毎夜聞いていた。辛い話が続くが、にあんちゃんのたくましさと末子のいじらしさに惹かれた。明日、学校へ行ったら林さんや金田くんにはやさしく接するようにしようと決心したものだ。そんな少年時代を思い浮かべながら、殿山泰司、西村晃、北林谷栄、穂積隆信、長門博之、といった日本映画黄金期の個性派の面々の演技を楽しんだ。
主人公の一家は九州の島の炭鉱で生計を立てている朝鮮人だ。強制連行でないにしろ、植民地化の結果として渡日せざるをえない家族の過酷な運命を描いている。差別はたえまなくあるが乾いたもので、差別を受けるほうもしたたかに反撃する。その「明るさ」が眩しい。
タイトルロールを見て、不思議に思ったのが音楽の黛敏郎だ。後年超保守主義者になっていくのだが、この“反”植民地映画にきっちり協力している。映画のその音楽は実に繊細で優しく、マンドリンのトレモロがしみるのだ。こういう小さきものへの繊細な感情を表す人物とは思いもよらなかった。社会派の映画の音楽を担当すること自体、晩年の「天地創造」のような壮大できどった音楽を作った黛からは考えられない。人は変わるものと、口癖のように言っていたオヤジの繰言を思い出す。
長女を演じた松尾嘉代がみずみずしく、しっかりもののお姉さんが、末子のバス遠足の最後に駆けつける場面は思わず瞼が熱くなった。この人を意識したのは、「ただいま11人」。あの頃もよかったが、少女時代は一段といい。なぜ、こういう地力をもった役者さんが最近活躍できないのだろう。
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