外海の旅3
次の日、里山のふもとまで車で行った。そこから石段が100余りあったか。
私はキトばあさんを背負って登る。まるで姥捨ての姿だ。一歩一歩歩いた。背中のキトさんはすまながっていたが、気にしないでくださいと、声をかけながら上がる。山は広葉樹林の清しさに満ちていた。上方になるにつれ、石段は切石の上等のものでなくなる。途中2回ほど休憩をとった。
階段を登りきると、平らな林となり、そのなかに目指す枯松神社の奥の院が見えた。神社の敷地の入り口らしき木の根方に大きな石があり、中央に十字が刻んであった。

「このあたりには、いくつも”かくれ”のお墓があります」と、きとばあさんは周りを見渡して言った。

たしかに、長崎西坂のキリシタン資料館で見た、キリシタン墓とそっくりの切石を伏せたものがいくつも、整然と並んでいる。ここにあるものは西坂のそれよりも進化したもので、いわゆる墓を彷彿とさせるものは何もない。名前もなければ、むろん十字架もない。ただ、平石が伏せたという姿しか見せていない。その厳かな姿に、思わず手を合わせる。

林をぬけて、中央の簡素な草葺屋根の奥の院の前に立つ。ここに枯松さんの御神体を安置してあると説明していただいたと記憶するが、さだかでない。ここは、あくまでカムフラージュで奉行所の目を眩ますためのものであったと私は記憶しているが、どうであろう。一説によれば、殉教したサンジワン様をまつった場所であるともいう。枯松さんとはどういう意味であろう。不思議な名前だ。
今回訪問すると、大浦教会の信徒が見学に来ていて、戸が開いていた。正面に掛け軸がかかり、両脇に陶器の置物があったような気がする。その上手に、白地に赤の入った布地があった。どうやら太平洋戦争の出陣のときに奉納した武運長久の日の丸のようだ。

25年前のときは、しばらくここに止まって、お墓や吉野さんのコメントを収録した。きとばあさんは静かに見守っていた。梢をわたる風がそうそうと吹いていた。


今回、山道を下っていくと、「祈りの岩」と表示があって、二つの大きな岩が並んでいた。
江戸時代、かくれの農民たちは、この大岩の陰に集まって、密かにオラショを唱えた聖なる場所である。遠い日の貧しい人々の小さな祈り――私の心を掴んで離さなかった。
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