外海の旅2
枯松神社へ向かった。
25年前、この神社を知るきっかけとなった出来事。詩人の吉野弘さんと旅していたときだった。この旅に同行することになった外海出身の若い女性の実家を訪ねたときに思いがけないことで、この枯松神社のことを知ることになった。
その女性は、るり子さんといった。彼女は長崎市内の美容室で働いていた。外海町の出身ということで、吉野さんを案内してもらうことにしていた。事前にるり子さんの実家はキリスト教徒かと聴いていたが、うちはそうではないが友だちにはカトリックの信者が多いから教会にも案内できるという。
夏の夕方、黒崎教会の内陣をるり子さんの案内で吉野さんは見学した。質朴なたたずまい、美しい夕焼けに吉野さんは感銘した。
日もとっぷり暮れたころ、るり子さんの実家を訪ねた。
夕食をご馳走になった。お酒が出て、その家の主人つまりるり子さんのお父さんがそれまでの重い口とうって変わって陽気に語りはじめた。だんだん、吉野さんと主人の距離がなくなっていった。
このあたりにはカトリック教徒のほかに、昔からのキリシタンたちもいるそうですねと、吉野さんが尋ねると、その主人は「うちんがたもそうですたい」 ぼそっと言った。
驚いた。だが私たちだけが驚いたのではなかった。私たちを案内してくれた、るり子さんも実家が隠れキリシタンであるという事実を、そのとき初めて知らされたのだ。
あのときの光景は今も目に焼きついている。るり子さんは唖然としていた。そういう事実が家に秘められているということを、20数年間、一度も勘づく事もなく育ったのだ。それほど、キリシタンの戒律は厳しかったのだ。たとえ子供であっても容易には信者であるということを表明しなかったのだ。江戸時代のタブーはまだ残っていた。昭和59年のことだ。
キリシタンとしての証をお伝えしましょうかと、お父さんはあることをうちあけてくれた。今も守っている習俗があるのだ。それを実行する聖なる場所が、この集落の里山にあるとお父さんは告げた。キリシタンたちは枯松さんと呼んでいる。
そのとき家の刀自的存在である祖母きとさんが登場した。よかったら、明日枯松さんに私がみなさんをお連れしたいがと親切な申し出。ただし、私は足が弱っているから、参道の階段は上がりきれないと顔がくもる。悲しそうな表情。
ただちに、私は申し出た。「大丈夫です。私がおばあちゃんをおんぶしますから、階段の上がり降りは気にしないでください。その枯松さんという場所に、私たちを連れて行ってください」一気に私は頼み込んだ。(つづく)
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