人生の縁飾り
だらだらと平坦が続くような人生でも、時には早瀬になることもある。くっきりと人生の変化を遂げるということが自覚できるような瞬間がある。
昭和57年の晩夏に長崎へ赴任したとき、そういう感慨をいだいた。子供が出来たばかりで、それまでの共働きをやめて、妻は子育てに専念する。私は初めての地方局の番組作りに参加する。そういう新しい生活が始まろうとするときだった。
転勤の打ち合わせをするために、単身で私は長崎へ先乗りした。羽田から飛行機で博多に入り、九州管内を統括するプロデューサーに挨拶をすませてから、汽車で長崎へ向かった。佐賀平野をぬけて有明海に出たとき、干潟ののんびりした風景を目にしてはるばる来たものだと感じ入った。おりしも夕暮れにさしかかっており列車の進行方向に赤い大きな夕日が落ちていく。目指す長崎は夕焼けのなかにあった。
浦上に着いたとき日はとっぷり暮れていた。徐行運転で浦上から長崎へ入って行く。両脇に小高い山がそそり立っていて、そこには宝石をばら撒いたような美しい家々の明かりが広がっていた。夢のような光景だった。
終点の長崎駅のコンコースは細長く、線路は海で行き止まりになっていた。最果ての駅だった。斉藤茂吉の都落ちの心境が少し分かったような気がした。ホームの外れに観光用のぺーろんが陳列してあった。まだ午後7時過ぎだというのに夜遅く感じられた。
駅前のホテルにチェックインして、タクシーで浜の町まで出て雲龍のギョーザを食べたことを覚えている。
翌朝、長崎局へ出社すると、目は少しも笑っていない中年のプロデューサーがにこやかに迎えてくれた。早速、最初の仕事を告げられた。前任者が残して行った企画で、九州管内放送の「蝶々さんの謎」。プッチーニのオペラ「蝶々夫人」はここ長崎が舞台で、この物語のモデルになった女性がいたという半ドキュメンタリーを制作しろという指示があった。市民オペラが秋に上演されるので、その製作風景を取り込んで、蝶々さんとはどういう人物であったかを浮き彫りにする番組を作れという。何が何やら分からないまま、資料をごそっと渡された。
それから2か月。長崎の土地勘もないまま、東山手や唐人町の界隈を必死で駆け回ってロケをすることになる。昨晩、放送された「蝶々夫人」の市川森一のドラマを見ながら、あの新米のディレクター時代を思い出していた。私が赴任した57年の長崎は、その7月に起きた大水害で大きな傷を負っていた。だが、そんな傷を町の人はおおらかに受け止めていた。私が知っている北陸の町とはまったく違う文化があった。
あの夕暮れの浦上の谷に入ったときから、人生が大きく変わっていくということを、しっかり私は感じていた。
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