今朝の秋をかみしめて
起きると部屋がひんやりしていた。とうとう秋が来たのだ。季語の「今朝の秋」はもっと早い時期に置かれているのだが、実感としての今年の秋は本日のような気がする。
読みかけていた、アン・タイラーの『ノアの羅針盤』は終わった。終章まぎわのクライマックスの波におおいに揺さぶられていたが、最後はあっけないほど平板な日常で物語は閉じられた。律儀なクェーカー教徒の精神を分け持ったタイラーらしい禁欲的な終わり方だった。60歳独り者の老後の生き方を追ったこの話は、文化の差はあれ、自分の身に置き換えて、身につまされて読んだ。
アン・タイラーの成熟した大人の目に惹かれ、敬意を抱いた。親がアルツハイマーに侵されているので69歳になったタイラー自身もその不安におびえることがある、とあとがきで知るとなんとなく近い存在に思える。
昨夜は遅くまで、大森一樹の映画「ヒポクラテスたち」を見ていた。1980年のATG映画でその題名だけは知っていたが、見たのは昨夜が初めて。「風の歌を聴け」で大森には幻滅していたので見る気がなかったのだが、あるエッセーでこの映画をつよく推奨していたので5本1200円のツタヤ商戦にのってレンタルして見ることにした。
面白かった。80年の時代風俗が記録されていることに対するノスタルジーもさることながら、モラトリアムを続ける医大生の「甘ったれた」気分が実に爽快だった。むさくるしい男たちに交じって紅一点の伊藤蘭が素敵だった。一番最後のカット、彼女の肖像のフェイドアウトは心に沁みた。まるで、本物の伊藤蘭が死去したかのような悲しみを覚えた。医者になろうと志したにもかかわらず、その夢を果たせず退学したのち、自ら命を絶った「伊藤蘭」。
私の学生時代にも、男とひけをとらないほど勉強が出来て頑張った女子がいた。だが時代はまだ彼女たちを遇することもないまま、定年を迎えることになった。上野千鶴子などはその世代だが、彼女だけは恵まれていたなと彼女の努力を無視して勝手に彼女の運の強さだけを評価する。
あふれるような才能を他人に見せることもなく、現役の舞台から退いていったおおぜいの女たちのことを思い起こさせる「伊藤蘭」。金沢のお城の中の大学でいっしょに机を並べて学んだおおぜいの伊藤蘭たちも、その後能登や富山の教育界に散っていって、昨年あたりにリタイアしたはずだ。彼女たちはどんな人生を送ったのだろう。これからの老後をどんなふうにして生きていくのだろう。
映画の舞台は京都。鴨川に架かる荒神橋。その河原でデートする伊藤蘭の寂しい横顔。
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