左ぎっちょ
鋏を使うとき、左手になる。普段不器用なくせに、紙切りをやらせると結構ちゃきちゃきやるから見直されることがよくある。
さきほども、原稿の切り張りをやっていて、傍にいた人から「左ぎっちょですか」と聞かれた。
左ぎっちょなんて言葉は久しぶりだ。左利きという言い方に揃えられているなか、この言葉には昔風の差別のにおいも含んでどこか趣もある。
幼稚園まで、私は左ぎっちょだった。絵を描くのが好きだったから、いつも左手にクレパスをもっていた。そのうちに、食卓につくと箸の持ち方に親からクレームがつくようになった。左手で箸をもつのが悪いと言いはじめた。それまで誰も何も言わなかったのが、突然の変更にとまどった。おそらく、母親が誰かから言われたのだ。左の手でお箸をもつなんて行儀が悪い。なんて告げ口を受けたのだ。まだ若い母親だったので、それを聞かされて動揺したのだろう。父にまで話が行ったとみえて、朝夕の食事には二人から私の手元に視線が飛んだ。
「どっちの手で箸を持つの?」という声がする。私はとまどいながら、「右」と応えるも左右どちらの手が右か一瞬分からずもたもたした。この経験は深刻で、1年生になって向かって右、向かって左、という概念がなかなか把握できなくなる。いや、今だって、時々分からなくなっている。
街に木枯らしが吹く頃、母は私の左手に包帯を巻いた。ご飯を食べるときも、字を書くときも包帯が巻かれていない手でやること。包帯を巻きながら母はこう諭した。
私は苦痛だった。何か体全体が縛られているようで窮屈で苦しかった。このときの拘束感が大人になっても記憶されていて、手術で体をベッドに固定されるときなど、異常に精神が昂ぶるのだ。
時々、左手の包帯を巻かれた、幼稚園児の私の姿が見える。心細そうな顔の私を見て、たまらなく愛おしくなるのはセンチに過ぎるのであろうか。
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