聞くこと
感覚のなかで視覚には特別の位置が与えられている。ギリシアの昔からのことだとか。みえることをオプトスといい、みることの学をOPTICSという。プラトンは光を真理の例えに使ったしアリストテレスも哲学に「みえる」ことを用いている。嗅いだり聞いたり触ったりすることは身体的なものが大きいから偽りが多いと考えられ、見ることは別格にあつかわれてきた。
19世紀以降、とくに視覚が偏重されるようになったと、私は考える。美術、演劇が活発になるだけでなく写真、映画の出現は拍車をかけたのではないか。私の仕事であるテレビはその最たるものであろう。
途中ラジオの時代というものがあった。聞くということが重視された。(重視、ここにも見るということの優位がある) 先の戦争の時代はラジオが重宝された。戦争が終わってしばらくはラジオの時代が続いたから、私の少年時代もラジオが娯楽の王様だった。「笛吹童子」や「オテナの塔」などにわくわくした。その後テレビにずっとかぶれていたが、受験の頃になると深夜放送に耳を傾けるようになる。土居まさるが人気者だった。
内耳という器官が不思議だった。聞くということは外部からの周波数を受けるわけだから外耳だけでいいではないか。なぜ内耳がいるのだろうと。
瞑想をすると、内部の声が聞こえてくることに気がついた。誰のどんな声かは分からない。ただメッセージはしっかり聞こえる。この声はどこから来るのだろう。おそらく自分の内部からと思われるのだが、自分の意識下にはない。ここでようやく内耳の意味が分かった。
次の瞬間、内耳が病的に聞こえてくれば幻聴になるのではないか、という恐怖感が湧いた。これってどういう具合にコントロールされているのだろう。
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