桑原武夫のふるさと
講談社の文芸文庫は、思いがけない名作と出会えるので贔屓にしている。今朝は桑原武夫の『思い出すこと忘れえぬ人』を読んだ。
桑原の父ジツゾウは、明治維新以降、敦賀出身でもっともビッグネームになった人物。高名な漢学者で、京大の名誉教授。その桑原は敦賀でも1,2を争う素封家の出身であった。
幼年期、桑原武夫は敦賀に一時住んだ。人口2万、北陸の大きな港町で、日露交易で賑わっていた時代だ。大正時代にあたるだろう。その頃の敦賀の風景、風物が描かれていて懐かしい (敦賀の町は空襲で焼失しているから、私は実際には見ていないくせに、懐かしく思う)。
町から海路でわたった常宮のまつりが出てくる。そこで食べた氷いちごが美味だったと、桑原が思い出している。その言葉に導かれて、私が少年時代に泳ぎに行った常宮の浜や夏季学校のことが脳裏をかすめてくる。光風園の前の船着き場で、明け方ラジオ体操しながら、松林の上を流れる夏雲を眺めたことを想い出す。船着き場に停泊した船の名前は有明丸だった。
やはり桑原の文章だったと記憶するのだが、駅前の掘り抜きのことが書かれてあった。敦賀は良質の地下水があちこちに噴出していた。それを「掘り抜き」と呼んだ。桑原が汽車で京都から帰って来ると、駅前に湧いていた掘り抜きに駆け寄って、喉の渇きを潤したことを、その文章は伝えていた。
私の小学生時分にも、掘り抜きはあった。夏休み近くになると、学校帰りに掘り抜きに口をつけてごくごく喉をならした。有馬屋敷の前に運輸事務所の出張所があって、その裏に掘り抜きがあった。そこはいろいろな器具が保管されていて、敦賀湾で引き揚げられた魚雷もあった。今考えてみると、信管も雷管も抜いてあったのだろうが危険物だったには違いない。その魚雷を見学がてら、そこの掘り抜きに寄った。水は冷たく、草履袋をよく濡らした。
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