長いロードから帰って
久しぶりに家のベッドで寝たせいか、6時過ぎまでぐっすりだった。昨日の朝に大きな地震があって、東の人たちはだいぶ泡を食ったようだ。西を旅していた私はまったく知らない。まことに「知らぬが仏」。京都以西では大震災の「傷」がほとんど見当たらない。未曾有の大災害も国全体で受け止めるというのは難しいものだ。
京都で購入した2つの小説を交互に読む。耕治人『そうかもしれない』(1988年)、清岡卓行『薔薇ぐるい』(1982年)。今から考えると、まさか未曾有の大災害が日本を襲うということも知らず、繁栄を貪っていた時代の作品ではないかと少し舐めた感じで読書したが、耕の作品はまったく違う。81歳の老夫婦の老々介護の現実を実に冷徹な目で見つめている。私小説だから、ほぼ耕の体験したことばかりと推測する。同年の妻が呆けて、夫はその介護に追われる。夜中に粗相をした妻の始末をしていると、妻が呟く。「どんなご縁で、あなたにこんなことを」
自分が呆けるのもつらいが、妻が呆けているのを見ることもつらい。81歳にもなってそんな境遇を生きるとは。病院を出て泣きながらプラタナスの並木道を歩く老人の姿が活写される。81歳の涙ということに胸が衝かれる。ここにはバブルの浮かれた気分などまったくない。
一方、清岡のほうは初老の男の恋話だ。癌の疑いをいだきながら、女子大生の姿に幻想を追う52歳の大学教授。先週までキャンパスにいた私には眩しい物語だ。63歳の私から見ればどれほど大人びていても学生たちは若く子供のような存在でしかないが。まだ前半しか読んでいないから断定はできないが、清岡が恋愛小説を書くことの心底が知りたい。長くサラリーマンとして生きて来て、詩人としてゆっくりデビューして、それから始まった作家生活。この人の晩年の生き方をもっと知りたい。
昨夜8時前に品川に着いた。多摩川を渡るころにはすっかり暮れていた。青い薄闇のなかに東京の町があった。家々には灯りがともっていたが、人の影はまったくなく不吉な想像が脳内をめぐった。なんだか、この巨大な都市が脆弱な未成年に思えてならない。
品川駅のコンコースには休日の夜らしい華やぎが残っていたのがせめてもの救いだった。
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