もんぺ
野沢節子といえば病がちではあるが、雪を愛で着物を愛した豪奢な俳人というイメージがある。
帯かたき和服一生粉雪ふる
そんな俳人が雪の山形へ黒川能を見に行ったときのことを、同行した馬場あき子が書いていた。
《なにしろ積雪2メートルが常識の、大雪のなかの迎春の祭だ。寒くないよう、動きやすいよう、いろいろ注文しながら、実は野澤さんがどんな服装で現われるかが楽しみだった。》
そして現れた野澤は、着物にもんぺ、雪草履という古典的身支度だった。彼女の実利的でいさぎよい覚悟に馬場は感心している。
と、ここまで読んで、10年前の出来事がさーっと甦った。
今思えば赤面するが、当時、50代に入ったばかりの生意気ざかりだった私は、番組作りに一家言も二家言ももっていた。
「世界わが心の旅」という紀行ドキュメンタリーを担当していて、外部の制作会社の企画をあれこれ注文する立場にあった。
あるプロダクションから、作家の宮尾登美子氏の旧満州紀行をやりたいという提案があった。彼女は戦前その地で教師をやっていて、敗戦と同時に命からがら逃避行した体験をもつ。その現場に行きたいという企画だった。
それまで宮尾の作品を読んだことがなかった私は、いつも高そうな着物を着ている女性作家としか認識していない。だからこう指示を出した。「そんな過酷な体験をした場所に行くのだから、当然礼装で出かけるわけにはいきません。それなりの身支度をしていただくことが前提です」思えば、傲慢な言い方をしたものだ。だが当時番組に「命」をかけていたから、あとさき構わず注文を出したのだ。
そして、ロケが行われ、撮影したラッシュを見ることになった。
試写室で見た宮尾氏の姿にいささかうたれた。たしかにお洒落な氏は綸子かなにかの高そうな着物を着ていた。ただし下半身はもんぺをまとい、足元はズックであった。彼女の中国行きは本気だったのだ。
実際、彼女が敗戦時に体験したことは筆舌に表しがたいものであったことが、その映像のあちこちに記録されていた。
十七歳で結婚した宮尾登美子。開拓団の教師の妻として生後五十日の娘を抱えて旧満州に渡る。新京近くの飲馬河村(いんばほうむら)で子供たちを教えていたが、敗戦後の満州で、中国人による襲撃の中をくぐり抜けることになる。かまどの中に潜んで難を逃れることもあった。何度も死と直面していた。
数々の名作を残した「世界わが心の旅」も終了して、5年ほどになる。
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