コンマキ
朝の10時に木屋町のホテルをチェックアウトして、京極のうどん屋に寄った。きざみうどん350円を食し満足。今朝読んだ水内鬼灯の文章に誘われて、京都市内のお寺の石庭でも見物しようと、タウン誌を調べたがいずこも土曜日は開園が12時以降で諦めた。河原町通りから烏丸通りまでキャリーカートを引っ張って歩いた。錦小路の市場をぶらぶらしながら通りぬけようと考えた。
午前中にもかかわらず、人が出ている。半分は観光客だが残り半分は地元のおばあさんだ。車椅子を押しながら鮎の甘露煮や若狭鯖の浜焼きを買う人もあれば、杖を突きながらうずら豆の甘煮をたしかめるおばあさんもいた。
錦市場のなかほどで惣菜屋をみつけた。へしこやなま節と呼ばれるカツオの燻製など京都のおばんざいが並んでいる。大津の母の実家では夏になると、このなま節を生姜で甘辛く煮たのを昼ごはんに出していた。冷や飯といっしょに食べると美味しい。これは調理するのが難しいらしく、料理の苦手な母はあまり作ったことがない。祖母が元気な頃は食べる機会もあったが、寝付いた昭和60年ごろからは口にする機会もめっきり減った。そのなま節を目にしたが、私とて調理もできず、ただ見るだけ。いつか食べたい。
その隣に身欠きにしんをくるんだ昆布巻きがあった。関東では昆布巻きといっても親指大のこぶりだが、関西では手のひらほどの大きさとなる。これが私の子供時代に親しんだ昆布巻きと一致する。昆布の衣は黒光りしてぬめぬめとして、いかにも美味そう。さくさく昆布を食い破ると中に煮たにしんのかけらがある。このにしんと昆布が合わさったとろとろしたあま味がなんともいえず美味い。
ふるさと敦賀は港町だから、魚介類の行商はよく来た。四季折々の旬の魚売りから保存食のへしこ売り、豆腐屋を兼ねた小魚売りまで、我が家のある路地にやって来た。冬になればせいこ蟹の売り声が街に響いた。
昼ごろに――今考えると昼食前の11時半ごろ、か――昆布巻きつまり地元言葉で言えばコンマキを売りに来た。70過ぎの小柄なおばあさんだった。可愛らしい面立ちだったが、足を引きずっていた。頭にはいつも姉さんかぶりした日本手ぬぐいがあった。よちよち足で小型のリアカーのようなものを押しながら、「コンマキはよろしオスケーノ」と声をかけて歩いていた。3日に一度ぐらいは我が家でも買った。母から買っておいでといわれると、そのおばあさんに大きな声で、「ちょっとコンマキをおくれ」と呼び止めた。おばあさんは耳も少し不自由だったので、大きな声で呼んだのだ。
コンマキが昆布巻きだと知るのはずっと後のことだ。
なつかしいコンマキを京都錦市場で見つけた私は、新幹線に持ち込んで、東京までの車中で食した。むろんアルコール付き。サントリーの角のハイボールをぐびぐびやりながら、コンマキを丸かじりした。磯の香りがして美味かった。ビニール袋の底にコンマキのお汁が溜まった。幼い頃、行商のおばあさんに大皿を出すと、コンマキを4,5個のせたあと、必ずシャモジでおつゆをたっぷりかけてくれた。このおつゆがあったかいご飯の上にかけるととてつもなくうまかったことを思い出す。
いつもなら京都の帰りには敦賀の実家に寄るのだが、東京へ早く帰ってやらなくてはならないことがあるから今回は行かない。伊吹山のふもとを抜けるとき、北国街道がちらりと見えた(気がした)。帰りたい。ふるさとのあの町に。魚の行商が練り歩いていた、昭和のあの敦賀へ。あの頃はまだ立石にも陸路がなく、白木にもバスは日に数回しか通わなかった。海も空も安全だった。蒼い海と青い空があった。
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