苔時雨
例年より早く5月に梅雨入りした京都では、明日あたりに台風も来るという。町はぐっしょりと濡れそぼっている。
うろ覚えだがにわか雨を指す時雨(しぐれ)は冬の季語ではなかったか。寒い頃の京都には小雨がよく降るという記憶があるから、冬だったと思うが。だが、雨季に入ればしばしば時雨と遭うことも。だから他の言葉をつけて冬以外の季語に変わることもあったはず。苔時雨もそのひとつではないだろうか。苔清水が梅雨の頃に苔のなかに水が湧いたようになるさまだったから、苔時雨も梅雨どきに苔が青々となる時雨を指すと思うのだが。旅先の宿でこれを書いているから手元に資料もなく詳しいことはいえないが、私の記憶ではそうなっている。
百万遍の知恩寺そばの古書の吉岡書店で『苔時雨』という句文集をみつけ、2000円とちと値がはったが購入した。作者は水内鬼灯。昭和31年に出版された古いものだ。巻頭の扉に大仙院書院の庭の写真が飾られており、目次には京都市内の20ほどの庭園の名前が挙がっている。どうやら庭めぐりの俳句と文章の構成だと覚った。序文に水原秋桜子が書いている。これは本物らしいと思って詳しく中身を確かめずに買った。
ホテルのベッドで読みふけっている。鬼灯の句も庭に対する情熱も素晴らしい。飽くことがない。秋桜子に言わせれば、庭好きの秋桜子でもせいぜい1時間眺めるぐらいだが、鬼灯といると3時間はざらで半日を覚悟しなくてはならないことがしばしばあったとある。こよなく京都の庭園を愛した鬼灯。彼は昭和24年に43歳の若さでなくなっている。「苔時雨」はその9回忌に刊行されたと、未亡人が記している。
年譜を読むと、明治40年に京都に生まれ、同志社大学経済学部に入学し、3年生の頃より句作をはじめ、31歳で馬酔木賞を受賞して活躍とある。信じられない若さでの句力の持ち主であることは、2,3の句を読めば分かる。
石縁を結びても露の身空かな
石とゐて梅雨尽日を遊びけり
とにかく鬼灯は石と話すことが好きであったらしい。石語とでも呼びたい。
春蘭や手ふれば石にあるいのち
あとがきで鬼灯は書いている。「人間の思惑を他所にして、天地の声を聞き侘びてゐるのが石であるから」
津波をもたらした荒々しい自然とは違う、愛でるがしかし厳しい自然がここにある。
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