償いきれないもの
「目には目を、歯には歯を」という記述は、バビロニアのハンムラビ法典にある。旧約聖書にもよく似た記述があるが、ハンムラビのほうが自由民だけに通用する理屈で、奴隷はその例から外されている。それに対して聖書はすべての人にと倫理的になっている。
そもそもバビロニアは多民族の同居する帝国であったから、利害の調整を図るためには、法典が必要であったのだろう。現代では、「やられたらやりかえせ」の意味で使われるが、元来の意味は、復讐を認めるわけでなく、過剰な報復を禁じるためのものであったらしい。
4人の死にひとりの死で報いるという基準が法曹界にはある。死刑制度の現実に立ってみると、現代の日本では4人以上の殺人を犯すと死刑になる確率が高い。永山判決のときの尺度がその基準になった。永山基準というものさし―その問題点や課題を浮き彫りにした、すぐれたドキュメンタリーがETV特集で放送されたことがある。2年ほど前になるか。ちょうど、太宰治の「斜陽」のドキュメンタリーを作っていて、その隣の編集室で密度の高い編集作業を行っているのを、見ている。
この死刑制度のことを考えると、被害者(不在となっているが)の怒り、被害者家族の苦悩と悲しみ、加害者の人権、世論への影響などがぐるぐる巡り、いかなる罰がふさわしいか、分からなくなってくる。死刑廃止論もふくめて難しい問題だ。
だが、殺される者の死が1万人とか10万人という規模になったら、この「基準」はほとんど意味をもたなくなってしまう。10万人の死に対して一人では釣り合いがとれない。
大勲位をもらったという宰相が、週末テレビでとくとくと原発導入の功績を語っていた。もし原発を推進させなかったら、日本は三流の農業国に成り下がっていたと、その活動を正当化していた。日本はその転落を免れたとして、40年後に「想定外の事故」によって、贖うことのできない莫大な犠牲と損失を招くことになったのだが、これを、その宰相はどう考えているのだろうか。
万死に値するという成句があるが、まさに今回の事故を起こすようになった関係者は万死に値するのでは。どうやって、その宰相は償いをするのだろうか。償うことなどできない。
人類がコントロールできない核を保有するということは、償うなどということができない絶対問題をかかえこむことになるのだ。それほど深遠にして深刻な問題にもかかわらず、元宰相はまだ懲りずに原発推進の政策を進めるべきと声をあげている・・・。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング