浮鴎
週末ということで、昨夜は明け方近くまで読書した。森澄雄『俳句燦々』、中野孝次『碧落に遊ぶ』、立川昭二『年をとって、初めてわかること』。これらの著者は、今の私と違わない年齢で書いている。その文章の毅然とした品格、優雅な表現に、我が身の甘さと幼さを知らせれて、ほとほと情けなくなる。昨日の記した、母と近江の文章なんて、六十男のセンチメンタルで情けない。思慮の浅いものだと嘆息をする。
といって撤回するつもりもないのは、これが私だからだ。
でも、これらの書で触れて知った言葉/知識を身につけたいものだ。せめて備忘として記しておこう。
夢しだれ。ルーシィ・リィの陶芸、チェコのシュピールベルクの全山監獄、岸本英夫「別れの思想」、森澄雄と島尾敏雄は長崎商業の同級、森と庄野潤三は九大の同級。忘れられた詩人竹内てるよ。
老眼を中国では花眼という。老後のことを昔は老入(おいれ)という。後世(ごせ)、影向(ようごう/浄土が顕現すること)
晩年の斎藤茂吉は溲瓶を離さなかった。頻尿だったのだ。あの谷崎も前立腺肥大を病んでいた。上田三四治は43歳で結腸がんになり終生癌と闘った。61歳で前立腺の癌の手術を受け、65歳で逝った。どれもこれも、けっして今の私から遠くはない。
森澄雄は妻の死後、6度の癌手術、脳幹の病で車椅子ぐらしとなった。それでも、癌で死ねるということが分かって安心したという。
死ぬ病得て安心(あんじん)や草の花
その森が中年の頃、近江に通い続けたことがある。150回は通っただろうと述懐している。まだ湖西線もない時代で、舟を使ったりして海津や近江舞子にわたっている。ある年の暮れに近江を旅して、最後に敦賀の種の浜(いろのはま)で元日をむかえたという記録が出て来る。「おくのほそ道」で芭蕉がますほの貝を拾った地だ。私のふるさとが出てきてうれしい。そこで森は波間に漂うかもめ鳥を詠んだ。
白をもて一つ年とる浮鴎
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