涙の谷
年齢のせいか、今の気分がそうなのか。「死」という命題が頭から離れない。
ニンゲンとは死に向かって生きていく存在であると、ハイデガーが言ったとか。普段は生きることしか頭にない現代人でも、ときどきは立ち止まって、自分が死にゆく存在だということに気づくはず。そんな折、一般の人はどうやってこの事実と向き合っているのだろう。
若いということは、明日しかみえない時間であり、年をとるということは過去を幾度も反芻する時間ばかりとなる。私だって30代40代には死なんてことは文学の中でのことでしかなく、遠い将来の出来事と考えてきた。
神谷美恵子を読んでいたら、彼女はこの世を「涙の谷」と叔父から教えられたとある。
苦しみの連続するこの人生は涙の谷であり、最高善として死もまたあるという考え方をちらっと告白しているのだ。一見、あの敬虔な彼女がキリスト者らしからぬ考えと見えるものの、よく考えてみると若くして最愛の人を失い、二度も結核を体験した美恵子であれば、あり得ることばでもある。「良家の子女」の戯言と看過できない。
神谷と並んで、このところずっと惹かれるのが中野孝次だ。彼も晩年の生き方というか、死んでいく生き方を繰り返し叙述している。今、手にしているのはズバリ『死を考える』(2002年、青春出版社)。ここで彼は病院で死ぬことの不条理を懇々と説いている。点滴のチューブに繋がれ酸素マスクで救命されたような状態で生かされる、現代の病院で不自由で非人間的な死。まっぴら御免だと77歳の中野が憤っている。私も、彼の説に賛同する。
このエッセー集のなかで中野は美しい表現を紡ぎだしている。「生の耐え難さ」。
どれほどこの世は涙の谷間となっているか。どれほど耐え難いものであるか。あの気丈で頑固親父の中野が、おずおずと口ごもりながら差し出した、人生の認識。「生の耐え難さ」。
単に弱音を吐いた言葉とは思えないのは、その後に続く考えだ。
耐え難いからこそ、そこを逃れることもありうるのではないか。つまり、死を選びとることもあるのではと、中野は考えている。
現世の生は辛く耐え難いものであるとして、この苦難から逃れる人間に与えられた自由。夏目漱石の胸中にも長く巣食っていたというこの考え・・・。
中野は、ショーペンハウエルの思想を紹介して、この考えを紹介している。キリスト教にあっては自殺は忌避される。が、ショーペンは生をこれ以上続けるより、ここで生を断ってしまおうと決意するときがあるのではと説くのだ。キリスト教では悪だが、古代からこれこそ最上の自由だとする考えがあったとするショーペンを中野は少なからず肯定しているのだ。
《--自然が人間に与えてくれたあらゆる賜物のなかで、時宜を得た死ということにまさるなにものもないということ。》(ショーペンハウエル『自殺について』)77歳の人生の理路も骨頂もわきまえたと思われる中野孝次にして語る、この荒々しくも美しい言葉。
晩春の夕暮れ、鶯の哀しい鳴き声にふかぶかと身を寄せながら、この美しい言葉を味読した。
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